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大山倍達マニアック検定

【古記事】”鉄人”木村の秘密(1954年)

JUGEMテーマ:格闘技全般
 

 という事で、先週増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでいたので更新しませんでした。 まぁ、今回は…何度か便乗してますがw それにちなんで、1954年の木村政彦と力道山が対戦した日本選手権大会のパンフレットに載っていた記事を載っけてみます。
 で、記事後にちょっと書こうかな、と。

木村力道戦パンフ.jpg

”鉄人”木村の秘密
●ブラジルでの”真剣勝負”物語●

白崎秀夫


1954日本選手権3.jpg

"木村の前に木村なく、木村の後に木村なし"とは、筆者が勝手に云い出した古臭い形容句であるが、しかもなお、充分に真実の重みとひびきだけはもつ。 二十才、五段にして握った全日本の覇権を、プロに転向する迄の満一二年間他に譲ったことがなく、数百回の試合中敗れたのは三回のみ、というような選手は柔道史上空前であり、又恐らくは絶後であろう。 柔道や相撲、拳闘などの格闘競技はもちろん、他の競技でもこれほど永い生命を保ち続けた選手を求めるとすれば、フィンランドの長距離走者"超人"ヌルミやテニスのチルデンの他に、格好な誰の名を挙げることができるであろうか。 まことに、かっての木村こそは無数の遊星群を従えて自転する、柔道界の燦たる太陽であった。
 "だが君、今日の力道山とのプロ・レスの試合を前にして、過去の柔道選手としての木村の強みを称賛したところで仕方がないじゃないか。 裸でやるプロ・レスと柔道じゃまるで要領が違うんだから"    というような声がそちこちから聞こえそうな気がする。 御説、まことに御尤もである。 しかし、従来の日本に於けるプロ・レスの試合から、木村の実力の全貌を誰が正確に測定できるだろうか。 のみならず、競技の性質から見ても、プロ・レスラー木村の実力の殆どが柔道に負うことが確かである以上、もう少し木村の柔道について語ることをお許し願いたい。

1954日本選手権.jpg

 木村の天分を発見し、以後十年殆ど寝食を共にして、彼を"不敗の鉄人"に仕立て上げたのは、往年の全日本選手権保持者で全身これ闘魂、寝業の名手として雷名一世に鳴った牛島辰熊氏であった。 牛島氏が少年木村に稽古をつけながら「強くなれ、強くなれ」とイガ栗頭に涙の拳骨を揮ったというのは有名な逸話である。 されば木村の柔道は牛島氏のそれに似て、天賦の膂力に物を云わせた強引無双の大外落し、一本背負等に攻めて攻めやまず、立業で取れぬと見れば忽ち寸分の隙から寝業につけ込んで得意の腕がらみ(プロレスで云うリスト・ロック)絞め、抑え込みにうち取り、終始一貫ひた押す重戦車の如く相手に攻勢をとらせる事のない壮烈なものであった。 因みに記録に表れた彼の極め技は、腕がらみ最も多く、大外落し、絞め、抑え込み、一本背負という順序になっている。
 二十五年木村はプロ柔道に転向したが、翌廿六年渡米、プロ・レスラーとして米国各地に凡そ百五十回転戦敗れたのは数回だけ、とは彼自身の語るところである。 だが、その記録の内容については断片的な米誌の紹介以外の資料をもたぬ筆者としては、何ともこれを許すことが出来まい。

19520306レッドランズ.jpg
木村政彦の試合広告

 たゞ、二十七年山口等と共にブラジルに渡った際、南米一円に勇名を轟かすNO・1エリオ・グラッシィと演じた、"真剣勝負"については、充分資料もあるので御紹介したい。 大体ブラジルには明治三十五年頃移住したコンデ・コマこと前田光世六段の柔道を今なお承え伝えて、南米を訪うプロ・レスラーや柔道家に挑戦する一派があることは、石黒敬七旦那お得意の海外武勇伝にも明らかな通り。 彼らの"柔道"たるや徹頭徹尾寝技を主にしたもので、柔道着も上衣が上膊をほんの僅か蔽うだけ、ズボンと膝まで、"真剣勝負"のルールをいえば、投げても抑え込んでも勝にはならず、首でも脚でも逆は一切お構いなし、試合時間無制限、一方が"参った"の合図をするか、ノビてしまうまで闘うという凄惨きわまりないものである。

木村政彦エリオグレイシー.jpg

 木村がエリオに挑戦したのは、一行中の加藤五段が先ずエリオの挑戦を受けて、邦人の集結地サンパウロで邦字紙サンパウロ新聞主催の元に闘ったところ、見るも無残な敗北を喫してしまったからだ。 血の気の多い邦人がサンパウロ新聞社に押しかけて日本のNO・1木村との決戦を迫たてやまなかったのである。 不測の事故を憂慮して首都リオの大スタジアムに移された会場には、カフェ副大統、日本在外事務所々長らを初め埋め尽す観衆三万五千。 数百名の武装警官が厳重警戒を布く中に、エリオふたゝび勝つか、木村よく後輩の復讐をとげるか、何れを勝つにしても相手を不具者にするような負傷を与えねば納まりそうもない、鬼気迫る勝負は開始された。
 六尺有余のエリオ・木村の立業を極度に警戒しつゝ低く構え、自若して立ち向う木村と睨み合いしばしやがてエリオ、豹のように木村の膝もとにフライングタックル。 尻もちをつく木村の足をとって、得たりと逆に行かんとすれば木村もとより寝業は望むところ、忽ちハネ返してもみ合い数分、ついに馬乗りとなるやエリオの首を両手に抱えながら金剛力に首も頭も抜けよ、砕けよと烈しくマットに叩きつける。 さすがのエリオ、早くも頸椎を痛めて弱りながらも、必死の膂力をふりしぼって木村の体をハネ返そうとする一瞬、木村十八番の腕がらみ、忽ちに極ってギクッと異様な音。 みるみる全身の力が抜けて蒼白になつるところを、エリオの弟タオルを投げ込んで、木村の勝、この間七分四秒であった。 エリオはそのまゝ病院に担ぎ込まれ酸素吸入で蘇生はしたが、全快までに五十余日の入院を要したと伝えられている。

1954日本選手権4.jpg
当日の試合ルール

 だが、さて、筆者には今日の力道山との勝負を予想するなどということは到底できない。 第一には、今日用いられてる従来の"国際ルール"なるものを双方選手やレフェリーが如何に運営するか、ということで勝敗は左右されるであろうからであり第二には、先にもふれたように、筆者が木村と力道山の実力を比較するに足る根拠を持ち合わせていないからである。 それゆえ、相手は何せよ三十才三十貫今を盛りの力道山、三十七才二十四貫の木村では体力的に適うまいという常識論にも筆者は何ら反対するものではない。 仮に木村の実力の絶頂時を二十五才天覧試合優勝当時とすれば既にそれから十二年経ち、又力道山との体重差六貫というのはいかなる格闘競技、例えば柔道に於いても対等に試合するための限界を超えるものであるから。 さりとて筆者は、この説に無条件に参加するものではない。木村の体には、割合人に知られていない左のような秘密もあるのだから。
 木村の心臓には、昔から著しい結滞がある。 トントンと二つ打って一つ休み、又トントンと打つ。 このため、渡米中にもドクターから試合出場を止められたことも一再ならずあったが、やがてその結滞は何万人に一人しかいない異常に強健な心臓に表れる症状であることが証明されたという。 異常な心臓は、恐らく異常な彼の強さの一つの理由であったのであろう。
 今春のシャープ兄弟と力闘した際にも、彼の皮膚だけには殆んど汗の流れるのが見えなかった、これが理由でもあろう。
 最後に、筆者は関係者並に観客各位に切望したい。 彼らに勝敗の帰趨にのみ心を奪われることなく、本日の試合を従来のアメリカ直輸入版のプロレスから、日本的な伝統、日本人の民族性に、よりよく合致した、真剣でフェアなプロレス日本版への発展の、意義ある契機とせられんことを。


 えー今回も興味深いですね。 白崎秀夫は白崎秀雄先生ですね。 何度か増田先生の本にも出ています。 その白崎先生が「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言い出したとか。
 それから石黒敬七先生がこの時点で既にグレイシー柔術を紹介していたらしいという事。 これは是非読んでみたいですね。 ちなみに1956年に石黒先生が出した「柔道世界武者修行記」には、コンデ・コマの話はあってもそこから先の事は書いていませんでした(バッとチェックしただけなので、見落としの可能性有り)。
 んで、木村政彦先生の心臓の秘密。 増田先生も書いて無かったし、今は忘れ去られた逸話かも知れませんが、あの寝る間も惜しんでの猛稽古を支えていたのは、この心臓にあったと断言する人もいたくらいでした。 自伝とか読んでいても分かるのですが、とに角疲労からの回復が、異常なほど早いんですよね。

 で、増田先生の本の中で、大山倍達総裁と一緒に渡米した遠藤幸吉氏の発言。 色々と反論したいので書いてみます。
 と言っても既に当ブログで回答しているので、アレなんですが…。
 まず、遠藤氏の、

 大山のあれは嘘。 ぜんぶ嘘。 大山はあっちでプロレスなんてやってない。 私は見たことがない。

 これは新聞資料により事実で無い可能性が高いです。 以下が1952年当時の記録より判明した巡業日程の一部。 この頃、グレート東郷、大山倍達、遠藤幸吉の3人で東郷ブラザーズというトリオを組んで巡業していました。

5/5 ・コウ東郷 対 ジェリー・ミーカー
       ・グレート東郷 対 ジム・ドビー

0506_1952_Iowa.jpg
遠藤幸吉の試合記事

5/6 ・マス東郷 対 ジェリー・ミーカー
       ・グレート東郷 対 イワン・ラスプーチン


大山倍達の試合記事

 日程を見れば分かる通り、5/5にコウ東郷(遠藤幸吉)が対戦したレスラーと その翌日にマス東郷(大山倍達)が対戦しています。 一緒に行動していて知らない事は無いでしょう。
 で、遠藤氏とG東郷が仲違いして途中からハワイに渡った、とありますが…じゃあこれがいつの話か。 遠藤氏は「大山倍達とは何か?」の中でこう語っています。

ーーいやあ、まいりましたね(笑)。 じゃあマス大山と一緒に行動してたのは、何ヶ月ぐらいなんですか?
遠藤 5カ月か半年近くだね。

 えーと、大山、遠藤コンビがアメリカ本土に着いたのが、4/2頃です。 遠藤氏の発言から最短で見積もると、9月頃までは一緒に行動していたという事になりますね。 で、遠藤氏が言うには、その後大山総裁とG東郷は2〜3カ月ぐらい共に行動したと。 ところが、大山総裁は7/22に米本土を発ってハワイへ、そして9/16にハワイ発の客船で帰国しています。

大山帰国.jpg
大山倍達の帰国を報道する記事

  じゃあ、遠藤氏はいつ別れたかと言うと、当時の大山総裁の手紙によれば、7/15、ハワイの新聞によれば7/17に米本土を発ったとあります。 …つまりはLAで別れるまで、皆一緒に居たって事ですね。
 ついでに言えば、木村先生はLAで東郷ブラザーズと会い、真逆の事を聞かされています。

 まあ、 いっちゃなんだけど、 プロレスのほうじゃ遠藤は”芸”も下手だし、商売にあんまりならなかったけど、 『大山君のほうがテレビでカバーしてくれたんだ』 ってグレート東郷がいってましたね。 それで遠藤君には 『もうお前、 そんなにいうなら日本へ帰れ』 と、 『この辺で別れよう』  といったんだそうですよ、 東郷がですね……。 東郷が 『ずいぶん困ったもんだ』 といってね、 『負けるのが嫌だ』 ちゅうてね」

 人の感情ってのは複雑な物ですねぇ。 誰だって自分が良い立場に居たいものです。 ついでに、遠藤氏が事実を語っていないと思われるので、1953年の「週刊サンケイ」を否定するのは短絡過ぎるかと。 大山総裁の記録を証明する物が何も無いとするならば、遠藤氏の証言を証明する物も何一つ無いのだと言う事です。

 それから最後に…これはTwitterにも書きましたが、大山総裁が語っていた明大柔道部の「末木」、これ、初出は1974年に出版された真樹日佐夫先生の「空手バカ一代 マス・大山 血闘十番勝負」です。 まぁ、試合の中身はまるで違うんですけどねw 以下引用。

 とはいえ、曾根康造自身は講道館での指導のほうに忙しく、同道場の事実上の責任者は師範代格とされていた。 その男の名は、末木といった。
 末木はまだ学生の身で、N大柔道部の主将の座にあった。 絞め技の威力には特に定評があり、学生柔道界の雄としてその名前だけは門外漢であるマス・大山の耳にもとどいていた。

 色々書きましたが、この「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかった」のかはメッチャ面白いです。 レビューはもう沢山の方が書いておられますので、書きませんが、ウチのブログなんかに興味のある方にはオススメです。 またその内、復讐に燃える木村先生の「柔道チョップ」の記事でも書こうかなぁ…。
 それでは、また。


参考文献:
Redlands Daily Facts, 1952/3/6
Burlington Hawk-Eye Gazette, 1952/5/6
Cedar Rapids Gazette, 1952/5/7
羅府新報 1952年 7/18
布哇報知 1952年 7/23
東亜新聞 1952年 9/27
週刊サンケイ 1953年1/18号 産業経済新聞社 1953年
柔道世界武者修行記 石黒敬七著 ベースボール・マガジン社 1956年
空手バカ一代 マス・大山 血闘十番勝負 真樹日佐夫著 マス・大山空手スクール 1974年
日本選手権大試合 (月刊ゴング 1979年1月号別冊 パンフレット復刻版ぁ 日本スポーツ出版社 1978年
木村政彦 わが柔道 木村政彦著 ベースボール・マガジン社 1985年
月刊パワー空手 1987年5月号 パワー空手出版社 1987年
ワールドボクシング5月号増刊 グレイシー柔術 ULTIMATEの一冊 ゴング格闘技特別編集 日本スポーツ社 1995年
紙のプロレス公式読本 大山倍達とは何か?  ワニマガジン社 1995年
月刊大山倍達 第弐号 2004年
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか 増田俊也著 新潮社 2011年


 






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コメント
「木村政彦はなぜ」読みました。多様な読みができる好著ですね。増田司馬遷は項羽木村政彦を本紀に入れることができましたwサンタナ戦はG・フォアマンの返り咲きでありますし、東京オリンピックに出場してればリアルにヘーシンクに勝てた様子などすごいです。力道山の一撃については 梶原先生に衝撃を与えたように 打撃恐るべしの認識を深めさせ、空手時代の到来を予兆してるかのようです。遠藤発言についてですが、東郷ブラザーズが別行動を取っていたことは正伝でも指摘がありますよね。遠藤氏の米国帰り頃のインタビューや記事はないんでしょうか。このころの遠藤氏は力道山に揶揄されるぐらい大山総裁を兄貴と慕っていたはずですから 空手バカ一代を意識したわだかまりを含んだ発言ではないと推察しているんですが。  
  • tada
  • 2011/10/15 3:01 PM
>tadaさん

増田俊也先生の本は、格闘技関係の評伝の中でも屈指の名著になるかと思いますね。
日本では今まで、孫引きで本を書いて参考資料もロクに明記しないという本があまりにも多かったのですが、以前に比べて一次資料が増えましたし、孫引きや伝言ゲームも減ったと思います。 本来なら巻末か各章単位で引用箇所のインデックスを作ったりして欲しいんですけどねぇ。
お陰で、筆者の想像なのか、それとも何らかの事実に基づく物なのか分かり難いケースがあります。
例えば私が割と読んでいる作家で挙げると…大下英治先生ですね、聞く所によれば、当日の天気まで調べて自著に反映させているそうですけど、書き方が小説風な為、どこまで本当なのか分からないんですw なので、参考資料としては非常に使い辛い。

東郷ブラザーズの別行動に関してですが、今までの情報から推察する限り、それほど長期間では無かった様です。 最長でも3日とか、その程度では無いでしょうか。 同一テリトリーでは1日1開催っぽいので、ちょっと別れて州外に出てまた合流とか、そういう感じがします。
遠藤氏のインタビューですが、どこかにありそうですが、帰国を知らせる新聞記事位しか知りませんねぇ。 ユセフ・トルコ氏は「俺は日本人だ!!」の中で遠藤氏の帰国当時取材をして得たという、門茂男氏のメモを使ってこんな事を書いていました。

"門メモ"の昭和27年のところに、遠藤幸吉のこの時の海外遠征時の成績が書いてあったので、これを紹介する。
柔道、柔道ジャケット・マッチ、そしてプロレスの試合を旅から旅のこの遠藤幸吉が110試合やり、75勝15敗20引き分けというんだから僕は思わず笑っちまったネ!

この本はトルコ氏がどれだけ木村先生を慕っていたかが伺える本なのですが、著者がトルコ氏なだけに、どこまで信用して良いのやら…w
まぁ、遠藤氏の発言は相当わだかまりを含んでいると思いますよ。 自伝でも大山総裁と巡業した話は出て来ませんでしたしね。
  • Leo
  • 2011/10/15 10:33 PM
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