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大山倍達マニアック検定

俺のケンカ殺法●ケンカ十段・芦原英幸(1985年)

JUGEMテーマ:空手
 
 そう言えば、海外から「サバット」(1995年)の映画を買ったのですが、思いっ切り海賊版でしたw どうやらギリシャで売られていたDVDの海賊版みたいですねぇ。 表紙には「世界最初のキックボクサーの実話」とありますが、作中登場する「タフマン・コンテスト」ではカポエラ使いとか、中国拳法家が出てたりw 黒人の世界ヘビー級王者として有名なジャック・ジョンソンっぽい黒人(構えが古典的なボクシング)もいましたが…時代的には1865年なのに、何で黒人が白人と同じリングに上がれるんだ? という疑問はさておき、フランスからアメリカに移民した元フランス軍兵士のお話です。 動きはヴァンダムから連なる、典型的なハリウッドアメリカン空手といった感じで、期待したサバットらしい動きもありませんでした。 失敗したぜ…。 もっとクラシカルなサバットっぽい動きをしろよなー。 ストーリーからオチに至るまで、オリジナリティの欠片も無かった様に思いますw

Savate.jpg
"SAVATE"

 という事で…一緒に買った「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というアメリカン空手の映画で思い出しましたので、今回は芦原英幸先生の記事を紹介します。 割と最近休刊しましたが、「ザ・ベスト」というエロ本に載っていた4ページの記事ですね。 表紙には、

道場破りで名を売った恐怖の男

なんてキャッチが入ってますw それでは本編に参りましょうか。






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【古記事】「猛牛との対決まで 大山七段に聞く」(1956年)

JUGEMテーマ:空手
 

 先日、20年来の友人たちと集まって飯食って呑んだんですが、皆東京にいるのにこの面子で集まるのも10年振りという暢気なものでしてw で、待ち合わせ前にいきなり声を掛けられて、誰かと思ったら21年前の級友で21年振りという訳の分からない1日だったのですが、皆さんは如何お過ごしでしょうか?
 しかしFacebookの威力を知りましたねぇ。 アレ、出身校(高校、大学まで)を登録するのですが、21年前に転校した為、そちらの高校を登録していなかったんですが…その級友曰く皆Facebookで繋がっているらしく、今度私を探して友達登録してくれるそうです。
 mixiにもそういうのがありますが、大体皆本名でやっていないので、見ても誰か分からないんですよねw それに私自身がmixiに煩わしさを感じて3年位放置しています。 Facebookも4年位前に登録したんですが、殆ど活動していないと。 しかし旧友とコンタクト取れるのは良いもんです。 何か活用しても良いんですが、ネタが思いつかないので、当ブログとは繋げていません。 何か活用ネタがあったら言って下さいw

 という事で…今回は、前回の「大山倍達 対 雷電号」の補足ですね。 「プロレス&ボクシング」1957年1月号に掲載されたインタビューを紹介します。
 この号では田園コロシアムでの決闘と大山倍達総裁へのインタビュー記事の2本立てになっており、前回は、この決闘記事とその1年後に出た記事をベースに新聞記事等で固めて構成したのですが、インタビュー記事は使っていませんので、ここに紹介すると。
 あ、その前に盟友Little Tigerさんに戴いた当時のチラシの画像を元に復刻しましたので、公開しますw
 ちなみに元の画像はこんな感じです。

oyama2.jpg
元の画像






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【古記事】血みどろの空手修練 空手八段 大山倍達(1956年)

JUGEMテーマ:空手

 実は先週ちょっと書きたいなーと思ってすっかり忘れていたのですが、先月…6月25日にエジプトのAl-Sayed al-Essawyという方がライオンと闘いました。 確か6月の頭に表明していたと記憶していますがこのご時世、 無理じゃないかなーと思っていました。
 一部報道では最初の表明から「素手」で闘う様な事を書いていましたが、実際にはローマの剣闘士の様な格好で手槍に円形の盾、そして剣を携えて檻の中でちょっとやっただけです。 とは言え何が起きてもおかしくないので、その無謀とも言える勇気は賞賛します。
 それで色々2ちゃんねるのまとめサイトを読んでいたのですが、皆大山倍達総裁は思い浮かべるんですけど、養秀会の山元勝王先生の事は知らないんですね。 武器を使用したという事で私が最初に思ったのは山元先生だったのですが。

虎殺し.jpg
山元勝王先生の虎殺し

 さておき、今回は1956年に掲載された大山総裁の手記を紹介致します。 これは「現代読本」という月刊誌に掲載された物で、表紙には大山総裁と多分力道山を模した絵が描かれています。 ちなみに同書には大山総裁の記事2本、木村政彦先生の記事1本、力道山の記事1本が収録されてたり。

現代読本1956.jpg

 大山総裁の記事は「空手決斗史 天下無双・神技の空手術」「風雪十年 血みどろの空手修練」と2本立てで、前者の著者は水島欽也氏。

神技の空手術.jpg

 以前紹介した「空手の大山八段と少年の物語」を執筆された方ですね。 内容自体は大山総裁が以前新聞社に寄稿した「手刀十年」がベースになっており、今回は割愛します。 機会があれば取り上げても良いのですが、だったら大山総裁本人が書いたバージョンの方が良いかな、とも思います。 まぁ、掲載されてる画像は面白いので、紹介する記事の方で出します。 後、巻末でちょっと引用する予定です。 それにしても、この水島氏が絡むと何故か大山総裁は八段になるんですよねぇ。 この時点ではまだ七段で、他の媒体ではちゃんと七段になっているんですけどね…w それでは、本編へ行きましょうか。 今回は陳老人の話が登場しますよ。

血みどろの空手修練.jpg

-風雪十年-
血みどろの空手修練
空手八段 大山倍達

〈気合で割る〉
 空手の稽古を始めた頃は、誰しも、コブシで瓦や板を一撃のもとに割れるようになりたいと願う。 そしてまた、捲きワラで鍛えて出来た先輩たちのコブシのタコにあこがれる。 コブシのタコを、空手の象徴であるかのように思つて、コブシにタコが出来るように念願し、タコが出来れば、やたらにこれを誇示したがる。
 私も、また、そうであつた。
 私が、はじめて空手をやりだしたのは、拓殖大学に入学してから、それまでは専ら柔道をやつていたのだつたが、拓大空手部の道場で、部員の学生たちが空手の稽古をやつているのを見てー
 「これは素晴らしい! 素敵な武道だ……」
 と、感嘆して、直ちに柔道から空手に転向したのだ。 が、私は拓大の空手部に入らなかつた。 拓大の空手部は、歴史こそ古いが、いまのように盛んではなかつたので、船越義高先生が目白にひらいていられた道場ー松濤館に入門したのである。
 義高先生は、沖縄の空手を内地に拡めて、現在のような空手隆盛の基を築かれた船越義珍先生の御子息で、空手界のホープといわれた強剛であつた。 惜しむらくは、終戦後、病を得て他界せられた。
 義高先生のもとで空手の修行を始めた私がまず、瞳をみはつて驚嘆したのは、ただ一撃で瓦を割り板を割る先輩たちのコブシの偉力と、そのコブシのタコであつた。 それは、驚嘆というより羨望であつたかも知れない。
 私は捲きワラに向つて、夢中でコブシの鍛錬をつづけた。 皮膚が裂けて血だらけになりながら、私はコブシを鍛えた。 私の指にはタコができて、二年後には三枚の瓦を重ねてもコブシの一撃でまツ二ツに割ることができるようになつた。 そして、終戦後、房州の清澄山にたてこもつて空手の修行をした私が、京都でひらかれた武道大会で全日本の空手選手権を獲得したときは、会場で屋根瓦十八枚かさねて割ることが出来た。

リールとベッカー.jpg

 その頃の私は、板なら厚さ五分のものを十二枚かさねて割ることができたが、その後、アメリカに空手の武者修行に赴いたときは、六インチの厚さに重ねた板を手刀で割つて見せた。 これは、本誌掲載の私のアメリカ武者修行記にくわしく書いてあるが、私が六インチの板を割る前に、千ドルの賞金を賭けて観衆の希望者に割らせてみた。 板にインチキがないことを、そうして証明させたのだが、どんなに力がある男がやつてみても、徒らにコブシを血で染めるだけで、誰ひとり板を割つて、千ドルの賞金をせしめることは出来なかつた。
(中略)

血みどろの空手修練2.jpg

 私は最近、新聞記者の目の前で、二貫目ぐらいの漬物石を、正拳をもつてまツ二ツに割つてみせた。
 そのとき、その新聞記者はー
 「世界広し雖も、あなただけでしよう? こんな石を、コブシで叩き割れるのは……」
 と、舌をまいて驚いたが、この漬物石も空手で鍛えあげたコブシの力だけで割れたのではない。 そして、いつ、どんな時でも割れるものではないのである。
 その石を割るまで、私は、相当な期間、その石を庭に置いて、時折眺めていた。 いつかは割つてみせる自信があつたが、ただ眺めるばかりで、決して割ろうとしなかつたのだ。 気合というのか? 割れるな! 割つてみようという気持ちが動くのを、そうして待つていたのだつた。
 たまたま、新聞記者が訪ねてきて、空手の話をしているうちに、「きようは割れるぞ! 割つてみよう!」という気持ちが動いて、いきなり庭に降り立つた。

血みどろの空手修練4.jpg

(中略)
 この「割れるぞ!」という気力が、石に勝つて、石を割つたとでもいつたらいいのだろうか? どんな空手で鍛えたコブシでも、ただ漫然と石に向つて、コブシをふるつただけでは、あの漬物石をまツ二ツに割ることは出来ないのだ。 石を征服する精神力! これが必要なのである
(中略)
〈力の鍛錬〉
(中略)
 私は、房州館山の八幡海岸で、猛牛と死の一騎討ちをして以来、五十余頭の牛と斗つてその角を叩き折つた。 そしてまた、この秋には後楽園の球場で猛牛との一騎討ちを企劃しているのだが、近い将来、熊と斗つてこれをねじ伏せてみたいと思つている。
 熊と斗うには、熊狩りの名人のごとく、斗う以前から、熊を征服する精神力をもたなければならない。
 「おれは、熊より強いのだ!」
 この気力がなければ熊とは斗えぬ。 斗つても、負けるのは必定だ。 熊との一騎討ちでの敗北は、死を意味する。 必勝の気組がなければ、とても出来ない。
 そこで、熊との一騎討ちだが、いよいよ出来るときまつたら、私は、心技の錬磨に励むつもりだ。 そして、毎日、七、八貫の小熊の足をつかんで、百回ほどふりまわす。 そのうち小熊も、だんだん大きくなつてゆくし、そういうことを半年か一年ぐらいつづけた挙句大熊との一騎討ちにとりかかるのだ。
 なぜ、そんなことをするかというと、熊に勝てるという気力の養成、これなのである。 力や技の養成よりも気力の養成、これが必要なのだ。
 もちろん、力も大切であり、技も決して疎かには出来ない。
(中略)
 ランカというのは、ネブラスカ州にいたドイツ系のアメリカ人で、性来決して強力ではなかつたが、有るとき、牛を持ちあげてみたいと思いつき、それからというものは、小牛からだんだん大きな牛を持ちあげる練習をして、それを七年間もつづけた結果、巨象を持ちあげて肩に乗せ、一マイルも歩くことが出来るようになつたーということがその本に書いてあるというのだ。 私も、それを読んで知つていたが、スタインボウは、そのとき、言葉を続けて私にいつたのである。
 「世界体育史でランカの記事を読んで、深く心をうたれた私は、不撓不屈の精神で鍛錬すれば、不可能とされていることも可能とすることが出来るという信念をもつたのです。 そして、この信念を実証するために、私は、ランカが試みた牛より大きな巨象を持ちあげてやろうと志し、その日から毎日、小さな象を板にのせて背中で持ちあげてみました。 初めはビクともしなかつた背中の小象が、毎日々々、持ちあげているうちに、いつか、グイッと持ちあげられるようになつた。 それから、だんだん、ランカがしたように大きな象を持ちあげるようにして、丁度、十年目にいまのような巨象を背中でももちあげられるようになつたのですよ」

ステインボーン.jpg

 ランカの如く、スタインボウの如く、不撓不屈の精神で鍛錬すれば、不可能とされていることも、可能とする力を発揮するのだ。
 武道やスポーツには、天才はない、というのが私の持論、先天的によほど体力に恵まれない者は別として、誰もが武道やスポーツに秀れることは出来るのだ。 秀れないのは、鍛錬が足りないからなのである。
(中略)
〈山中の修行〉
(中略)
 私は、牛と斗つて角を叩き折ることができたが、ライオンと斗つて、これを殺したサンドには遠く及ばない。 が、清澄山にたてこもるまでの私は、とても牛とは斗えなかつた。 空手も決して強くはなかつた。
 「強くなりたい! 空手で日本一になりたい!」の一念から、眉を剃り髪を切つて清澄山にたてこもり、山中の掘ッたて小屋に住んで、一年半の年月を空手の修行に精進したのであつた。
 ところで、私が、どうして特に牛をえらんで牛と斗い、これを殺してみようと思つたかというと、義高先生のもとで空手の稽古をしていた頃、その昔、剛柔流の宮城先生の弟子が、沖縄で牛をコブシで叩き殺したということを聞いたからである。 その弟子は、牛を殺したため、宮城先生から破門をされたということだが、果たしてコブシで牛が殺せるか、どうか私には疑問であつた。
 私は、牛ぐらい殺せなくては、日本一とはいえない、と考えて、いつの日か必ず牛と斗つて、一撃のもとに牛を屠つてみせようと、心に決し、俗界を去つて清澄山にたてこもり、昼は空手の稽古、夜は法華経の諳唱と独唱という仙人のような生活に入つたのだ。

血みどろの空手修練3.jpg

 空手の稽古は、未明からはじめて夕暮れまで殆んど休みなく毎日つづけた。 まず、突きや蹴りの練習ー、これは周囲の木立を襲いくる敵と見て、これに対して一気に立ち向うわけだが、道場で行う組手の稽古と比較にならぬ激しさで、手も足も血だらけになつてしまつた。
(中略)
 三十二貫のバーベルをやッと持ちあげられる程度であつたが、その目方を増して行くために、木の幹に木綿針を仕掛けておいて、持ちあげるときにうしろから私の尻をグサッと針で突きたてるようにしておいた。 尻の痛さに全身を緊迫させて、えいッとばかりに、それまで持ちあげられなかつた貫目のバーベルを持ちあげるという仕組みだつたが、こうして次第に貫目をふやして三十二貫のバーベルから三十七貫のバーベルを持ちあげられるようになつたのである。 お陰で、私の尻は針の傷あとだらけだ。

〈達人の心境〉
(中略)
 且つて、陳という中国の拳法の大家が、アメリカを廻つて横浜に立ちよつたことがある。 たつた一日、横浜に滞在されただけだつたが、陳先生は私のために特に面会の時間をつくつてくれた。 そして、中国拳法の秘技を見せてくれたのだつたが、それは正に神技に等しく、私は全く頭がさがる思いがした。
 先生の拳法は、全て陰の呼吸から出た業で、そのとき、先生は厚さ一寸の板をコブシで割つてみせてくれたが、私がコブシで割る場合は、満身の力をコブシにこめ、えいッ! とばかり猛然たる勢いで板を割る。 が、陳先生のは、そうではない。
 淡々として水のような態度で、板に背を向けて静かに三歩あゆみ、それから振り向いてまた三歩、静かに板にあゆみ寄つたと思うと、その瞬間、眉ひとつ動かさず「ハイッ」と叫んで、スパリッと板をまツ二ツに割るのである。
 恐るべき陳先生の業であつた。 陳先生はそのとき、とび業なども見せてくれたが、これも、いままで見たことがないほど鋭くて偉力のあるものであつた。
 先生は体重十五、六貫ぐらいの小柄の身体で、しかも、コブシにタコひとつ出来ていないのだ。 何を相手に、どうしてコブシを鍛えたのだろう?
 「禅ですよ……」
 先生は私の疑問に対して、そう答えた。
 「禅?」
 「そうです。 鶴足の型を毎日二時間づつ行つて、三十年つづけたのですよ」
 鶴足の型というのは、爪さきで立つたまま両腕を肩と平衡にして前にだし、やや横向きになつて、手首から先きをダラリと垂らす型なのだが、これを毎日、二時間づつやつて三十年つづけたというのである。
 「三十年間、この禅をやり通さなければ一人前には、なれませんよ。 だが、いまの若い者は、到底三十年も辛抱できない。 だから一人前にはなれないのです……」
 鶴足の型を説明して、陳先生は、そういつたが、先生こそ大気をを相手に、宇宙を相手にコブシを鍛え、業をみがいた真の達人というべきではないだろうか?
 鶴の足型でコブシを鍛え、コブシに板を割る偉力を涵養させた陳先生のどこにも、タコがないのは当然だつた。 いや、拳法の陳先生にかぎらず、空手でも達人といわれる人たちにはタコがない。

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 私は、義高先生の門に入つた当初、先輩のタコを見て羨望した。 が、タコは単なる見栄であつて、空手の達人にはタコはない。 タコを誇示する者には本物はいない。
 義高先生のコブシにもタコはなかつた。 船越義珍先生にもタコはない。 本物であり、達人であるからだが、同時に、決して達人ぶらない。 達人ぶるうちは、達人ではないのである。
 船越義珍先生に、こういう話しがある。
 何人かの弟子をつれて、電車に乗られたときのことだが、同じ電車に乗つていたヤクザらしい若い者の足を、先生が踏んだとかいつて、その男がからんできた。
 「これは、どうも、すまんことをしました…」
 と、先生は丁重に詫びをいつたが、若者はカサにかかつて承知をしない。 そして、いきなり、先生の頬にビンタをとばした。 それまで我慢をしていた弟子たちが、顔色をかえて若者に迫ろうとした。
 が、そのとき、先生は弟子たちを押しとどめたばかりでなく、帽子までぬいで頭をさげて詫びたというのだ。
 空手に先手なし! これは、先生が常に口にしている訓言で、空手はあくまでも護身の武道であり、喧嘩などに用いるべきものでは絶対にない。 が、この場合、誰が、帽子までとつて詫び言をいえるだろうか?義珍先生のような達人であればこそ出来たのだ。
 空手に先手なし!ー空手は喧嘩道具ではなく、あくまでも護身の術であり、心身鍛練の武道なのである!………。

 
 という事で如何でしたでしょうか?
 義高先生というのは、船越義珍先生の御子息、義豪先生の事ですね。 本来は「よしたか」と読むそうなのですが、「ぎごう」とも読まれていた様で、この辺りはよく分かりません。 大山倍達総裁はその弟子になりますから松濤館時代は若先生と呼んでいたはずです。 割とどうでも良い話ですが、義豪先生にレントゲン技師の仕事を斡旋したのは山田辰雄先生らしいです。 全く知られていない様なので書いてみました。
 スタインボウは以前にも書きましたが、ヘンリー・ステインボーンですね。
 で、陳老人。 どうやらこれが初出みたいです。 鶴足の型は一見立禅っぽいですが、違うみたいですね。 剛柔流の源流とも言われる白鶴拳では無いか? という説もあります。 ちなみに梶原一騎先生によればこの方は陳鐘圭という人物らしいですが、本当かどうか分かりませんw
 それから、大山総裁の熊と闘う為に面白い訓練方法を考えていますが、この長期計画は大山総裁ならではみたいですね。 以前黒崎健時先生は大山総裁を表してこの様な証言をされています。

 館長(大山)の意志のつよさは、われわれのいう意志の強さとは次元がちがっている。 たとえば五十時間、ぶっつづけてで訓練するといえば、それをやってしまう。 そういう身近な”時間帯”とは別に、いったん一つの目標を定めたら、十数年もそれに向かってやりとげてしまうー。

 まぁ、でも小熊を振り回す訓練はどうなんでしょう?w 熊には慣れるでしょうし、ある程度体力も付くでしょうがw
 しかし、牛に対しても最初の挑戦こそあまり考えていなかったみたいですが、以降は研究を重ねていますからね、生態研究も兼ねてだったのかも知れません。
 ところで牛と言えば本文中に後楽園球場で闘うという話がありますね。 こちらについては以下にこうあります。

附記ー今秋十月、大山八段と猛牛の一騎討ちを後楽園球場で公開しようという企画が目下進められている。 後援者は味の素の吉田重役で、同氏が渡米中、大山八段と米人プロレスラーとの試合をみて、空手の威力に感動、最近大山八段と会見し、その人柄に惚れこんで全面的援助を申出たものである。
 夜間照明下の球場で行われる人間対猛牛の死斗! これはまさに地上最大のシヨウといえるだろう。 この一騎討ちの公開が決定されると、大山は、直ちに九州の深山にたてこもり、そこで、坐禅を組み、心身の錬磨に励むことになつている。 果たして大山が勝つか牛が勝つかスリルを超えた巣率と興奮を想像しただけでいまから血がわく思いがする。

 これ、田園コロシアムで行われた「空手対猛牛」の事ですね。 規模の関係か、スケジュールか、結果的には後楽園球場ではやりませんでした。 まぁ、それより興味深いのは大山総裁の試合を見た日本人がいた、という事でしょうか。 たまにこういうネタが出て来たりするので大山総裁の研究は止められませんね。 たまにコレ、書いて良いのかなぁ? みたいなネタもあったりしますし、色々矛盾している話もありますがw
 それでは、また。

※誤字を修正しました。

参考文献:
現代読本 1956年7月号 日本文芸社 1956年
ヤング・アイドル・ナウ臨時増刊別冊号 世界最強の男 大山倍達 爆発! マス・大山空手 勁文社 1974年
週刊大衆 1979年5/3号 双葉社 1979年
フルコンタクトKARATE 2005年1月号 福晶堂 2004年

参考リンク:
エジプトの「世界最強の男」、ライオンと素手で決闘 (2011/07/09)
Egyptian 'Gladiator,'defeat lion (2011/07/09)








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【古記事】 塩田剛三と木村政彦の対談(1987年)

JUGEMテーマ:格闘技全般
 前にも書きましたが週末は家にいないので、平日にちょっと記事書いてたりします。
 
 今回は「ゴング格闘技」の2011年7月号で最終回を迎えた、増田俊也先生の連載「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に便乗し、達人として名高い合気道養神館の創始者塩田剛三先生と、最強の柔道家と謳われた木村政彦先生の対談記事を紹介したいと思います。 雑誌「フルコンタクトKARATE」の1987年12月号に掲載された物ですね。
 それでは、どうぞ。

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ーーお2人は、拓大時代の同級生だとお聞きしましたが。

塩田  当時の拓大ではね、俺と木村ともうひとり空手の福井の3人が拓大三羽烏と呼ばれていたんだな。
 木村は人見知りする方で、福井とは口を聞かなかったが、俺はなぜか木村とも福井とも気があって、2人とつきあっていたんだ。

木村  福井はそんなに強かったか。

塩田  福井は、中山正敏さんや高木正朝さんと拓大に初めて空手部を作ったんだね。 ケンカは強いが、クセがあって柔道や、合気道はどうってことない、と言っていた。 じゃ、やってみようと俺が受けて、2人で体育館でやったんだ。 右の正拳突きから右の前蹴りを狙ってきたんだが、サッと左へよけて右腕で拳をはさむようにして左腕で、福井の右肘をたたいたらポンと飛んでいった。 奴は、肘をしばらく痛めてね、それで当時無名だった合気道を修行していた俺も三羽烏の仲間に入れさせてもらったんだ。(笑)

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木村  塩田は俺と腕相撲で勝負したこともあった。 いや、強かったな。 俺は身長170センチで85キロだったが、塩田は154センチで47キロだった。

塩田  木村は、10回やって10回負けたとどっかでしゃべってたが、実際は3回やって初めの2回だけ俺が勝ったんだよ。 もっとも、3回目は手を抜いたけどな。(笑)

ーー塩田先生は、何か特別な鍛錬をしていたんですか。

塩田  いや、合気道はね、体によどみを作らないために筋肉を鍛えてはいけないんだ。 しかし、若い頃はそんなことわからないから、植芝先生に隠れて鉄アレイを持ち上げたりして、見つかるとよくおこられた。 しかし、若いうちは体に力をつけたいと思うのは自然で、理屈はあとでいいから、とにかく目一杯稽古してればいいんだ。
(中略)
朝5時から夜9時まで目一杯やったよ。 若い頃はそういう時期が必要だと思う。 ここにいる木村なんか”稽古の鬼”だったんだ。 有名な”3倍の努力”という言葉があるけど、彼は本当にそれをやり通した。

木村  まあ、人と同じように寝てちゃだめだね。 昭和15年の天覧試合の前は毎日10時間半はやっていたから寝る間はなかった。
 大学時代は、朝4時半に起きて、牛島先生の塾生だったから、掃除をして、そのあと巻きワラを左右千回ずつ突く。 巻きワラを突くとね、親指の握りがしっかりとするしね、腕や肘や、引きつけるときの手首も強くなる。
 それから警視庁に行って10時頃から稽古する。 1時間ちょっとぐらいかな。 それから拓大で3時間くらいやって,講道館で夜の6時頃からやって、8時から11時までは深川の町道場でやった。

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木村政彦

ーーそれで稽古は終わりですか。

木村  いや、家へ帰ってきて食事をしてフロに入ってから独りで稽古をやった。 腕立て伏せをまず千回、それからボディビル、80キロのバーベルをベンチプレスで600回挙げる。 これだけで1時間くらいかかった。
 それから、もみじの木に打ち込みを千回。 ものすごい太いもみじの木にね、柔道の帯を巻いて打ち込みするんだが、毎日千回もやってるとすぐ切れちまうんだな。 金がかかってしようがない。(笑) それでロープを持ち出してやってた。
 それから大外刈りの稽古。 当時、警視庁と講道館で、俺が大外刈りをやると、1日平均10人脳しんとうを起こしていたので、稽古のときは使ってくれるなと言う。 これを聞いて奮発してね。 よし、脳しんとうではおさまらないようにしてやろうと思ってね、大外刈りの研究を徹底してやることにした。
(中略)
 こんなことをやってると、夜中の2時頃になってしまう。
 しかし、これですぐに寝てはダメだ。 人間は寝たら死んだのと一緒だ。 人が死んでも、自分だけは生きている稽古をしようと。 そういう訓練をすれば勝負に効果があるんじゃないかと思って。 体をつねって、寝ない訓練をする。 朝の4時頃までね。 いつも、朝の一番列車が通って、”あー、夜が明けるな”と思っていた。 一睡もしないときの方が多かったな。 でも、それには、秘訣があってね、学校で寝てた。(笑)

塩田  あんたは授業中いつも寝とったな。 木村が我々のクラスにいたから、誰も落第しなかった。 ケツから押し上げてくれたから。

木村  ふとんの中で、寝ないでいると1日の稽古の状況が頭の中に浮かんでくる。 だいたい100人くらいの人間と1日稽古をしたが、次から次へと人間が出てきて、あのときかけた技はこうで、どうだったか、というのが出てきて、技をかけた瞬間がストップモーションになる。 それでこの技は、いいとか悪いとかわかる。
(中略)

塩田  まあ、今の若い人間にそれだけ稽古をしろと言っても無理だろうな。
 今の柔道の連中じゃ、木村にはかなわない。 今やらしても、山下や斎藤あたりはコロンコロンやられるよ。
 大外刈りひとつとっても、切れが違う。 今のような体力の競い合いじゃなくて、木村は技で投げていた。 どんなでかい奴でも、一発でふっとんでいたからな。

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塩田剛三

木村  俺はね、大きい相手とやると、これは投げやすいと思う。 日本人で百キロもある奴は、しまっていないからだ。 稽古不足だからこいつは脂肪がついていると思ったんだ。

ーー木村先生から見て山下や斎藤は稽古不足ですか。

木村  さー、技術面から見ると、真からその道を研究しているようには思えないな。
(中略)
 柔道をやるとガニ股になるため、左足を踏み出すとき、どうしても開きぎみになる。 これゃいかんというんで、俺は歩き方を変えた。 爪先をまん前に向けてスッスッと歩くんだ。 だから、普段歩いている時でも、足サバキの稽古になった。
 力を一点に集中しないと、上体の力で投げることになる。 だから今の柔道じゃ相撲には勝てないよ。 本当は相手がでかければ、それだけくずしやすい。 体重があるから、ちょっとくずせば自分の体重がかかっていく。

塩田  今の柔道にはくずしが無い。 だから階級制になって、小さい者が大きい者を倒すことができなくても良くなっている。

木村  柔道のとらえ方が違う。 俺らの頃は、相手が突いたり蹴ったりしてきても対応することを考えた武術だった。
 勝負には勝つか負けるかしかない。 山下が遠藤とやったときも、あの試合はハッキリと山下が負けていた。 試合開始直後に遠藤が山下にカニバサミをやって倒したが、なぜ引き分けで延長なのか? カニバサミが禁止技なら遠藤の反則であり、OKなら遠藤の勝ちだ。
 試合の結果は一生ついて回るものであり、主催者のルールの解釈で選手の勝敗が左右されるのはおかしいんだ。
 私らの頃は、試合はそのまま勝負だった。 雌雄が決するまで40分間、全日本の決勝で戦ったこともある。
 俺は、試合で敗けることは死ぬことと同じだと思った。 その覚悟でやっていたから、試合では1度も敗けたことはなかった。

塩田  死ぬと言っても、死に直面したことのない人間には、その覚悟もわからんよ。

木村  この前、拓大の総長がね、「木村さん、あなたは死んでも物事をやりとげると言いましたけど、死んでしまったら元も子もないじゃないか」と言うんだ。 私は、この人は武道を徹底してやったことがない人だと思った。 私が言いたいのは、本当に死ぬ覚悟があれば、訓練の度合いが違うんだ、ということだ。

塩田  頭で理解してもらおうとしてもダメなんだ。 命がけっていう言葉は簡単だけど、それを実行に移すには自分を無くさにゃいかん。

木村  そうだ。 本当に無くなるからね。 死ぬというのは、どういうものかと思ってね、自分が試合に負けたら死んで見せるという気持ちを見せるとはどういうことかと思ってね、短刀を机の上に置いておいたんだ。
(中略)
本当に死ねるかどうか、ある時、ウーッと自分の腹に短刀を刺して見た。
(中略)
よし、あとは短刀を引っぱれば自分はいくな、と思った。 そこから先は気合だからね。 一気に引けばいい。 そのときに安心した。 よし、自分は本当に死ぬことができると確信を持った。

塩田  真に迫ってる、木村政彦って男は本当に大したもんだよ。 そこまでいけば恐いものは無い。
 拓大もすごい男を出したもんだ。 木村のような武の神髄を極めた男を出した大学は拓大以外にない。 拓大はもっと誇りを感じるべきだな。 東大なんて知識だけだからな。(笑) 頭じゃなく、実際に自分を捨てて体験する、体得ってことはなかなかできないんだ。

木村  塩田も、命がけを何度も体験してるんだろ。 当時はいろいろあったからな。

塩田  命がけねえ……。 まあ、もう昔のことだから話してもいいだろう。
(中略)
 それまで、合気道の練習をしてても自分が強くなったかどうかわからなかったんだが、日本を発つ時、先生が、「塩田はん、あんたはもうどこへ行っても負けんから」と言ってくれた。 それでも自信はなかったんだが、この事件をきっかけに、死に直面したとき、いかに自分を捨ててしまうかを学んだような気がする。
 日本へ帰ってから、日本全国の警察予備隊に指導に回ったが、1度もおくれを取ったことはない。

木村  命を捨てるっていえばね、俺は本当に自分の命を捨ててしまったような不思議な経験があるんだ。
(中略)
 稽古に行ったとき、学生が82名もおってね、全員が猛練習していた。 当時は強かったんだ。 高等師範といえば。 よろしくお願いしますって言ったら道場に上げてくれてね、かかり稽古だ。 俺が学生選手権をとったもんだから、こいつをブッ倒せって相手は向かってくる。 こっちは投げられまいと必死だ。 膝でも着いたら一本になると思ったからね。
 1人5分でやって、70人目くらいかな。 やってるうちに気が遠くなって、それでも奮起してやってたら意識不明になって、前のめりにブッ倒れた。 しかし、自分の体は動いてるんだな。 気を失ったけども攻防の技術を尽くして戦っている。 それから自分がどこに行ったのかわからない。 見ると、高等師範の学生が15人くらい集まって、道場の片隅で何か見てるんだ。 俺は稽古をしながら、あいつら何を集まって見てるんだろうと思って、ソーッと見ると、誰かが長々とノビている。 上からのぞいて見ると、アッ俺じゃないか。(笑)
 ノビてる俺の顔を見ると安心立命だね。 本当ににこやかに寝ている。 その寝姿がいいんだよ、本当に魅力的に感じた。

塩田  どっちが現実なんだろう。

木村  それがね、どっちが本物かと思いつつ俺がここにいるなら死んだのは誰かなと思いながら稽古は終わった。
 人間っていうのは、死ぬ寸前、霊界に行く前にね、何かがあるんじゃないのかな。

塩田  よく死ななかったな。

木村  7時間ぶっ続けだからな。 一度も膝を着かなかった。 もうろうとしていたが、帰るときには鼻歌を歌いながら帰っていったら、みんなびっくりしていた。(笑)

塩田  今、木村が言ったように、霊というか精神力の驚異を俺も目のあたりにしたことがある。
(中略)
肉体は滅びても精神は向上せにゃならん、というのが、先生の考えだったから、だから”ワシが昇天する前が一番強い”と先生は言っていたが、それも証明する話がある。
 先生はガンで亡くなられたんだが、死の数日前、もう骨皮スジエモンになっているのに、いきなり「稽古しよう!」と布団からハネ起きた。 絶対安静なものだから屈強の内弟子が止めようとすると、4人とも家の中から庭先までブン投げられたんだ。
 木村がさっき無意識で戦っていた話をしたけど、それは合気道の極意でもあるんだ。

ーーお2人の達人に、一般の人がどのように稽古すれば、その極意に近ずけるのか、そのヒントを教えて下さい。

木村  むろん稽古するしかない。 しかし、今の人にただ稽古をしろっていったってダメだろう。 ムダな稽古はしたくないだろうしな。 ただし、これだけは知っておくといい。 稽古には段階があるんだ。
 始めは強くなろう強くなろうと思って稽古をするけど、それじゃ芸がない。 ある段階になると、人はまわりの人から強く思われたいんだ。 強いところを見せたいから相手を投げたい。 でもそれじゃダメだ。 自分はどういう技をマスターしたいのか、その意志をはっきり持ったら、相手から投げられようが、どうしようが関係ない。
 俺は大外刈りにこだわってきたから、負けても大外刈りだった。 その技をマスターしようと思ったら、初心を貫徹する。 稽古で裏を取られてカーッとなるんじゃ、せっかくの技が我流で固まってしまう。 そこで、今まで研究したもんが何もならなくなる。

塩田  基本だよな。 基本を身につけないうちに絶対にその先に行けない。
 俺が植芝先生に教わったときは、毎日何を教わるのかわからなかった。 ものすごい高度なことをやる日もあれば、翌日は基本的なことをやる。
 今、自分が合気道を指導する立場になって自分の経験から数少ない基本を取り出して、まずそれを徹底して身につけさせるようにしてる。

木村  俺が独りで練習してるときも、ほとんど基本の繰り返しだった。
 でも、ある程度のところまで行ったら、伝統的な型をそのまま反復するだけじゃなく、その動作の持つ意味を理解しなくちゃいけない。
 どこに相手を投げるか、こっちに投げるか、投げる方向が違ってくると、それによって手の引きとか腰の落とし具合が全然違ってくるんだよね。 ここに投げるんだと決めれば、それに対する手の引き、腰の位置、脇のしめ方、腰の入り方が決まってくるわけ。 それを今の人は研究せず、昔の型をそのまま繰り返している。 人間は背の高い人もいれば低い人もいる。 それによって、技も変わってくるんだ。 理論を理解できないと、その人にあった技を研究することはできない。

塩田  技を徹底して体に浸み込ませれば、あとは相手に対しても自然に技が出る。 木村が無意識で戦ったというけど、それは徹底して技を体に浸み込ませた上でのことだ。 ああして投げてやろう、こうして投げてやろうと思っているうちはダメだ。
 おそらく木村のような達人は無意識にやってるんだろうけど、合気道では、それを呼吸力と言う。 力でない力、相手に併せて自然に出る力だ。 リズムといってもいいね。
 呼吸は3種類あって、「吸う」、「吐く」、「止める」がある。 吸う息は相手を誘うが、吐くときは極限の力を出すとき、止めるときは瞬発的な動きをするときなんだが、この3拍子に、中心線を合わせる。 どんなときでも頭と足の先を結ぶ中心線を崩さなければ、相手に投げられない。
 自分の方から、この技をかけてやろう、と気が先走ると技があとに来るから、そこにズレができる。 息との関連性がない。 しかし、呼吸と動作が一致すれば、あとは相手との呼吸を合わせるだけで良い。 相手の動きに応じて自分が反応できるわけだ。
 知らぬ間に相手の体を崩して、投げることができる。 これが自然体だ。
 木村が、どんなに大きな相手でも投げ飛ばすことができたのは、自然体をマスターしてたからだろう。
 木村が選手権をとったときは無になっていら。 相手が木村の思うように動いてくれるんだ。 自然が味方してるんだから。

木村  自然かどうか知らんが、自分は試合の前の日から勝つのはわかっていた。 勝つか負けるか試合の前の日に正座して考えるんだ。 禅と同じでね、すると自分の勝つ姿が浮かんでくる。 そうしたら神仏に明かりをつけて、勝利を祈願すると、翌日はどんな相手も小さく見えて、そして前の日に見た通りに勝つんだ。 試合の前の日には勝つか負けるか煩悩になやまされるからね。 塩田がいうように、煩悩を払って、自然体で臨むようにしていたのかもしれないな。

塩田  合気道も柔道も、動作は違っても、根本は同じなんだ。 山の登りにはいろいろあっても頂上は同じようにね。

木村  登るには稽古しかない。

塩田  若いうちは自分の持っているものを全てハキ出すくらいに打ち込め。 闘志でも腕力でも出しきることが大事だ。 極意だの自然体だのは、年をとってから考えればいいことで、若いうちはガムシャラに突進していくことだ。

木村  武道の国、日本の伝統を受け継ぐ若い人間に登場してきてもらいたいもんだな。


 如何でしたでしょうか?
 ところで、増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の最後の最後に興味深い話が出ていましたね。 実話なのかどうか、裏を取れる話では無いのですが、一挙に伝説が広がった感じがします。

大山倍達と木村政彦2.jpg
在りし日の大山倍達と木村政彦

 それと大山倍達総裁の話も少し出ていました。
 早く書籍化して欲しいものです。

 それから、今号の「月刊フルコンタクトKARATE」2011年7月号に、不動禅少林寺拳法の特集が載っていましたが、その中に元金剛禅少林寺拳法の白蓮会館館長 杉原正康館長と、元不動禅少林寺拳法の太道奥旨塾宗師 中井道仁宗師の対談がありましたが、この中でちょうど当ブログで連載中の「極真空手と少林寺拳法の抗争」について話しているところがありました。 それにしてもタイムリーな記事だw

 それでは、また。

参考文献:
月刊フルコンタクトKARATE 1987年12月号 福晶堂 1987年
月刊フルコンタクトKARATE 2011年7月号 福晶堂 2011年
ケンカ空手 世界に勝つ 大山倍達著 スポーツニッポン新聞社 1972年

 






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【古記事】芦原英幸のビール瓶割り (1983年)

JUGEMテーマ:空手
   子供の日なので、大山倍達総裁の少年向け技術書第2弾をやろうかなと思ったり、「空手バカ一代」をやろうかと思ったりした結果、ふと思い立ったので芦原英幸先生のネタにしてみましたが、皆さん如何お過ごしでしょうかw
 まぁ、「空手バカ一代」の方はもう「少年マガジン」をスキャンしちゃったので、これ終わったら書こうかと思っていますけどね。

 という事で、今回はですねぇ、角川書店の「バラエティ」という月刊誌に載った「芦原ケンカカラテ入門」を紹介したいと思います。 タイトルは…ちょっと遊びが入っていますw 騙し…では無いですけどね。 全2ページでテキストは1ページだけなので、結局全文書き起こしてしまいました。 それでは、どうぞ。

バラエティ8301.jpg

 「ガッ」
 と石がまっ二つに割れ、小さい破片が飛び散った。 石を割ったのは振り下ろされたニンゲンの手である。 しかも、その手というのはこの原稿を書いている右手なのだから、これはもう、ビックリギョーテンですね。
 漫画「空手バカ一代」で「ケンカ十段」と描かれた芦原英幸さんに”自然石割り”をやってもらってビックリしようと思ったら、「そんなの誰でもできるんだから、やってみたらいい」
 と、軽くやらされることになってしまった。
 まずはお手本に、映画「地上最強のカラテ」にも出ていた二宮城光さんが、フランスパン大の石を手刀で一発。 石は見事にまっ二つ。

バラエティ8302.jpg
二宮城光の自然石割り

 実にタンタンと割ってしまって、驚くのが恥ずかしいくらい。
 で、芦原会館の道着を着せてもらって、黒帯を締めたわけです。
 石はフランスパンを縦に二つに切ったくらい。
 台にしている石から、割る石を少し浮かして打つのがコツで、思い切って手刀を振り下ろすと、「やった!」割れたじゃないの。端の方が、二センチぐらい。 一発よ。 どうだ。
 「『自然石割りの』って肩書きにつけようかな」
 「じゃ、こっちの石やってごらん」
 「オス、こんなのいくつでも……イテテ」
 突然打った右手に痛みが走った。 実はスゴク緊張してたんですね。 イテテ。 そりゃそうだ、石なんか、石コロなんかぶったら痛いにきまってる。
 「普段のケイコでも自然石割りなんかやるんですか」
 「いやいや、こんなことしないですよ。 石割るんだったら、カナヅチで割ればいいんだから、ね」
 「ウイリー・ウイリアムスみたいなデカい外人とやるのって、やっぱり恐かったりしないんですか?」
 と訊くと、無口な二宮城光さんは「向こうが恐いんじゃないですか?」
 と一言、いたずらっぽい目で笑った。
 次にいよいよ芦原”ケンカ”カラテの実演。
 相手の蹴りが入ってきた、とそれをかわした、と思った瞬間に相手の髪の毛をつかむようにして相手を真後ろに引きたおし、その後頭部に下からヒザ蹴りっ、
 「うわっ、死んだっ」
 と思った。一瞬の出来事です。 一瞬の。
 今度は相手の蹴りを低くかわしてローキックで相手を倒し、首をかかえて顔面にヒジが振り下ろされるっ、
 「死んだっ」
 とまた思った。 これはケンカだ。 そりゃあ、あんまり残酷だ。 怖さが肌にくる。
 「芦原カラテは、実戦だから。 ケンカカラテだから。 ホントはこれで倒れた相手の腕を取ってね、こう、頭を地面から浮かして、ほら、さっき石を割った要領で、蹴る」
 ゲッ、そんな。
 「ボクは、人の頭はサッカーのボールだと思って蹴れって教えてんですよ」
 あの、僕でもできる、そのケンカの技をなんっか教えて下さい。
 「からまれたら、まずゴメンナサイしなさい」
 はい。 でもそれでもまだ何か言ってきたら?
 「もう一回ゴメンナサイしなさい。 だけどついでに下げた頭を顔面に入れてあげなさい」
 うへっ。
 「壁とか電柱なんかもあったらそこへ『ヤメテクダサーイ』って相手のアゴを押さえて、後頭部をドーンと。 たいていそれで倒れるからそしたら『失礼シマース』って頭をこうドスンと踏んで帰る」
 うひゃあ。 芦原さんが床を「ドスン」と踏むポーズをしただけで、そこで見えない頭がグシャリと潰れる。
 そんなカラテのケイコじゃあ、ケガする人も多いでしょ」
 「いえ、一人もいないのが自慢ですよ。 だいたいケガして強くなるなんていうんだったら二階から飛び下りりゃいいんだから」
 芦原さんというのは「空手」を「カラテ」とカタカナで書くようにポップな感じのする人で、うまく言えないけど、スゴミが軽いというか、コワサが明るいというか。
 というわけで「ゴメンナサイ」と「ヤメテクダサーイ」と「失礼シマース」を教わったのだ。 その他にもオソロシイ技をいくつか見してもらって震えあがったのだけど、その怖さをセツメイするスペースが無いので、見たい人は、三月末に講談社から出る「実戦! 芦原カラテ」を見てみたらいいと思う。

j実戦!芦原カラテ.jpg

 カラテっていうよりはケンカのテクニックの本みたいで、ヒトゴロシ技が満載されているわけで、そんな本を出版していいのだろうかと心配してしまう。 一冊の本の中で、何十人が「死んで」いるかわからない。 「誰でもできる」っていうのがまたアブナイ。 誰が読むかわからないではないか。
 その本に使うために撮った連続写真を見せてもらってビックリしたのは技の速さ。 一秒間に十枚のスピードで撮ってまだ撮り切れない。 つまり、手刀が、構えられてるコマがあって、次のコマではすでに相手を打ち終わってるのだ。
 一秒間の間にケンカが一つ終わる。 ケンカってもっとドラマチックな展開があるような気がするけど、芦原ケンカは、文章にたとえたら俳句って感じ、最小限の文字数の中にドラマがあるような。
 だから「実戦! 芦原カラテ」はこの数数の一瞬をあらゆる角度から見たような本だ。 だけど考えてみると殺人現場写真集みたいでやっぱり恐い。
 「その本読んだら道場になんて来ることないよ。 みんな出てるから。 読んでもっと強くなりたい人だけ来ればいい」
 「じゃあ、その本を熟読したら、もうケンカはバッチリですね!!」
 「やめといた方がいいよ」
 あ、やっぱりね。 どっちにしろね。 して、芦原カラテの極意っていうのは?
 「いいですか。 相手が殴ってきますね? ぶたれたら痛いからよけますね。 そしたら目の前に相手の頭がありますね。 前だけじゃなくて横まで見えちゃう。 見えたらついでにそこを打ってみる。 これだけですよ。 よく『ツッパル』なんていうでしょ。 真正面からツッパルだけじゃなくて一歩かわして欲しいですね。 世の中も広く見えるんじゃないですか。 だけどかわしてから『パワー』は欲しいですね。 それはもう」
 やっぱり男は強い方がカッコイイにキマッテルナァ。
 「君、彼女と歩いてて、チンピラにからまれたら、どうします? 彼女置いて逃げる?」
 ズ、ズルイ、その質問。 それナシ、ナシ。
 「じゃあ、最後にビールビン割りの技だけ教えましょう。 誰でもできるやつ」
 押忍!! お願いします。
 「まず左手にビールビンを持って、目の高さまで持ってくる」
 押忍!!
 「そしたらその手を離しなさい。 ビンは床に落ちて割れるから」
 このかわし方よね。


 …という事で如何でしたでしょうか?
 自然石割りですが、たまに極真を批判するつもりで割り方を得意げに言う方がいらっしゃいますよね? 「あんなのインチキだー」ってw でも割り方そのものは大山倍達総裁自身が何度か著作で書いてたりしますので、別に隠したりしてません。 コツとインチキは違いますよ。 例えば、手元にある「限界への挑戦」(旧版)を引いてみましょうか。

 (注意とポイント)
 石の左端三分の一くらいを左手で握り、右手でたたく瞬間、石の右端が指一本くらいすき間があくようにし、打った瞬間石もいっしょに金床にあたるようにすると簡単に割ることができる。

限界への挑戦.jpg

 まぁ、実際に割られた事がある方ならご承知の事かと思いますが、石の大きさによっては難易度が全然違います。 平べったくて細長い石なら素人でも割れますが、厚みのある丸っこい石は無理です。 誰にでも出来ますが、どの石にも出来る訳じゃあありません。 そして失敗すると、攻撃力が全部自分に返ってきますので、痛いです。 人に見せる場合は、事前に自分の割れる範囲を理解しておきましょうw
 今回タイトルとして採用した「芦原英幸のビール瓶割り」ですが、最後のオチとしてちょろっと出ているだけですw 期待した方、すんませんw
 しかし、結局の所、大山倍達総裁も芦原英幸先生も、根本的な戦闘理論に関しては言っている事は一緒なんですよね。 要は正面からでは無く相手の弱い所を突けって言う事です。 でもって、やる時は容赦するなと。 物凄く単純化して言うと、そういう事だと思います。

 松宮康生さんほどじゃないですが、芦原先生の記事はいくつか手元にありますので、これらも追々紹介したいなーと思います。
 そう言えば「ゴング格闘技」で絶賛連載中の、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が来月で最終回なんですよね…。 これでまた至福の時間が減ってしまうかと思うと淋しいものがあります。
 それでは、また。

参考文献:
限界への挑戦 大山倍達著 宝友出版社 1977年
バラエティ 1983年4月号 角川書店 1983年
実戦! 芦原カラテ 芦原英幸著 講談社 1983年








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【米記事】1994年度 名誉賞 大山倍達 (1994年)

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 平日更新は久々ですね。
 4月26日は極真空手創始者、大山倍達総裁の命日ですので、今回は米武道雑誌「ブラック・ベルト」の1994年イヤーブックに掲載された、大山総裁の追悼記事を紹介します。
 意訳ですので、本文とは若干違う部分もあります。 それではどうぞ。


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ー1994年度 名誉賞 大山倍達ー


 極真空手の創始者、(マス)大山倍達は恐らく全ての世代の格闘家と比べても最もタフな格闘家だった。
 この男は自分の強さを猛牛と闘う事で試した。これは大山よりもむしろ牛にとって分の悪い対戦だった。大山は文字通り怒り狂う獣の角をむしり取り、そして頭部への一撃で殺した。

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 1994年4月26日に71歳でこの世を去るまで、大山は生きる伝説であった。 彼にとって牛や他の人間と闘い、勝利する事は大した問題では無かったであろう。 相手は目の前に現れ、そして触れる事が出来るのだから。 しかし肺癌こそが隠れた敵だった。 それは大山の体内を徘徊し、日毎に彼を引き裂いていった。 彼には死を回避する術を知っていたが、病気は拳足では倒す事が出来なかった。 なぜなら、癌がもう何年も前から大山自身の体内を食い尽くしていくのを知らなかったのだから。

 大山の死は極真関係者のみならず、他の格闘技関係者さえも悲しませた。
「二度と大山総裁の様な方は現れないでしょう。 これまでも、そしてこれからも永遠に」
 と極真の指導員、ジミー・西村は言う。

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 大山は一つのジャンルを切り拓いた。 彼は1923年に朝鮮で生まれ、拳法を9歳の時に始めた。 5年後、彼は日本に移り陸軍士官学校に通い、そこで松涛館空手を学んだ。 東京の拓殖大学に入学した大山は、松涛館の創始者富名腰義珍に入門を認められ門下生となる。 そこで2年間学び、そして剛柔流の創始者宮城長順の高弟から空手を7,8年学んだ。

 大山の精神修養に大きな試練を与えたのは25歳の時であった。 それは日本の千葉県清澄山での山篭りで、彼は人里離れたこの地で18ヶ月、激しい修業に明け暮れた。 この頃大山は空手を1日7時間稽古した。 それぞれ型を100回ずつ演じ、素手で石を裂き、木を巻き藁代わりとし、そして時には頭を石に打ち付けた。 さらには氷の様に冷たい滝で、瞑想をして精神を鍛えた。

 大山が文明社会に戻ってからは牛との対決や、他流試合ーすなわちレスラー、ボクサー、そして柔道家達を相手に「何でも有り」形式で闘い、倒す度に名声が高まっていった。 大山は誰にでも平等な機会を与える戦士で、挑戦を望む相手にはどんな相手でも、どんなスタイルからでも挑戦を受けた。

大山倍達韓国の訃報記事.jpg
韓国の訃報記事(紙名不詳)

 大山の極真流はこの頃から具現化する。 例えば彼の闘い方や哲学等、極真は日本の真の武道を体現していると言えるだろう。 たとえ現在では身を守る為に刀を持ち歩く必要が無くとも、極真空手は武士道における武士の倫理や、生き方を再現している。 いやそれ以上に、彼の弟子たちが己を犠牲にしてまで、それを学ぼうとしている。 しかしながら大山が一番力を入れているのは、武を極める為の手段だ。 彼は自分の弟子が鍛錬や自己犠牲を通して、強さという物を見付けると信じている。

 極真空手は厳しいが、効果的な護身体系を持っている。 これは自己の精神を涵養する事無しでは出来ないだろう。 大山が創り出した原理には、礼儀正しさ、尊敬、知恵、そして謙虚さがそこには含まれている。 それを備えていない武道家は、己の戦闘技術を正しく行使するのは不可能であると、大山は信じていた。 粗暴で自制が無い人間も同然と大山は主張する。 生前、大山は「空手は礼に始まり、礼に終わる」と語っている。

 大山は自分の名を売る為に闘っていた訳では無い。 空手の為に闘っていた。 闘う事で勇気を増し、人としての正義を求める事が出来る様になると大山は主張していた。 大山曰く、例え如何なる危険と遭遇しても、打ち勝つ事が出来なければ真の武道家とは言えないという。

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「日刊スポーツ」(1994年 4/27)

 生前、大山は東京を拠点に国際空手道連盟極真会館を設立し、世界でも一流の武道団体へと発展させた。 支部道場は世界の至る所にある。 日本では数々の本が彼の事を書き、映画では彼の波乱万丈に富んだ人生が至る所に散見される。 そして漫画では彼の軌跡を詳しく描き綴った。

 そして今、「ブラック・ベルト」誌も大山に敬意を表し、1994年度の名誉賞をここに贈る。
 死後ではあるが、与えられて然るべき武道家へ。
 例え伝説はもう、我々と共に在らずとも。


 という事で、大山倍達総裁の追悼記事を出してみました。 書いたのは「ブラック・ベルト」誌で編集長を務めていたジム・コールマン氏です。
 私の場合は当時留学しておりましたので、総裁の訃報を知ったのは3日後ぐらいだったと思います。 実家に電話をしていた友人が、「大山さんが死んだって」と私に伝えたのが最初だったかと。 それで慌てて実家に電話したところ、新聞の切り抜きを送ったという返事が返って来たのですが、全く実感がありませんでしたね。
 それでは、黙祷ー。

参考文献:
Jim Coleman, "HONORARY AWARD Masutatsu Oyama", BLACK BELT YEARBOOK 1994, Vol.31, Rainbow Publications, Inc., 1994
日刊スポーツ 1994年
ゴング格闘技増刊 BATTLE SERIES Vol.8 大山倍達総裁追悼写真集 〜不滅の生涯〜 日本スポーツ出版社 1994年







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マス・オーヤマ・究極の挑戦への探究(1970年)

JUGEMテーマ:空手
 さて、先日森川哲郎先生の本を読んでいたら、ひょっとしてこれが李青鵬の元ネタかッッッ!!! という話を見付けてしまったのですが皆さんお元気でしょうか。

 今回はですねぇ、アメリカで一番伝統のある格闘技雑誌、「ブラック・ベルト」誌の1970年イヤーブックに10ページに渡って載った大山倍達総裁の記事を紹介してみようと思います。 題して、”MAS OYAMA SEARCH FOR THE ULTIMATE CHALLENGE”。 意訳すると今回の記事の表題になります。 言わば、アメリカ版大山倍達伝説ですね。

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 どこまで事実であるかはともかく、興味深い内容だと思います。 そもそも翻訳は苦手なので、結構破綻した文章になってたりするかと思いますが、とりあえず本編へどうぞ。

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 終戦直後、米士官の為に接収されていた東京の山王ホテルで開かれていたダンスコンテストも終わろうとする頃、1人の日本人が激怒していた。 そしてその怒りの矛先である韓国人は気にする事無く笑っていた。
 2人の男は女を巡って争っていたのである。 日本人はベルトに装着したナイフを取り出しちらつかせた。 間合いに入るや、男は突進してナイフを突き出す。
 そして韓国人と交差する瞬間、男は逆突きを顔面に食らった。
 骨の破壊される不快な音が鳴り響き、まるで熟したスイカを開いた様なその頭が床に着くまでに、男は死んでいた。
 その韓国人、当時24歳の崔永宜ー後に大山倍達という日本名を得て帰化するーにとって幸運だったのは、この日本人がいくつかの殺人事件に関与していたとされるヤクザだった事だ。 その為、大山は裁判所で厳重に警告されるだけでこの事件から解放される事となった。

 この事件は大山の人生にとって大きな転換期となった。 大山のそのハンマーの様な拳は、人間にとってはあまりにも危険だったのだ。 大山の手は、牛を一撃で昏倒させ、角を叩き落とし、そして捻り殺した。  また、石や木、瓶や瓦、レンガや板を破壊した。 拳の打ち下ろしで30枚の瓦を割った記録さえある。 そして板を支える人間を板と同時に叩いて病院送りまでやってのけた。
 1960年、大山がマジソン・スクエア・ガーデンで行われた北米空手大会の為にニューヨークを訪れた際、「ニューヨーク・タイムス」紙は大山を「世界で最もタフな男」として紹介した。 しかし大山はこの様に語っている。

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”The New York Times”(1962年11/25)に載った記事

 「空手の中で最も強い男は、最も弱い男だと言えます。 一撃で人を殺せるのだから、自分自身を制御する術を学ばねばなりません」

 「私があのヤクザの妻が夫の遺体にすがって号泣しているという悪夢を見始めた時、自分の人生を変える覚悟が出来ました」
 大山は酒も煙草も喧嘩も全て止めた。
 「自分がいつでもヤクザの組長になれる可能性があるのを知った。 しかし空手の指導者を選択したのです」

 大山倍達は1923年、朝鮮半島の南西、黄海から数マイルのところで、崔承玄の第4子として生を受けた。 崔家は裕福であり、広大な農場を所有し、村長を務めていた。

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1966年、韓国の空港で一族と記念写真

 大山は6マイル離れた龍地小学校に通った。 あまり勉強熱心では無かった様だ。 彼はホッケーや水泳、釣りや山登りと大いに遊んだ。 しかし彼の少年期を占めていたのは借力であった。 借力とは朝鮮式の柔術と拳法を複合した武術の様なものである。 この生活に終わりを告げるのは、大山が京城の叔母の元に住む事になったからだ。 大山はここから中学に通う。
 しかし、大山は問題を起こしてばかりいた。 街をうろつくチンピラと喧嘩をしていたのだ。 そして温厚な父を激怒させ、警察を怒らせた結果、山梨の少年士官学校に送られた。 ここで大山は、主に航空機のエンジンについて学ぶ。
 自分で改名した大山は、山梨で松濤館の空手を学び始める。 しかしこれに満足しなかった大山は、東京でも空手を学ぶ事にする。

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千葉の海岸で構える24歳の大山倍達と柔道家の松岡氏

 拓殖大学に入学した大山は、再び空手を学び始めた。 目白の松濤館には「空手の父」船越義珍とその息子が指導しており、大山は毎日2時間、2年間に渡り修業した。
 18歳になる頃、日本はアメリカとの間で戦端が開かれ、大山は帝国陸軍に徴兵された。 そして政府が後援する武徳会に入った大山は、ここでも空手の修業をする。 正確には武徳会傘下の義方会のメンバーであり、この部署は戦時下におけるゲリラ戦や各種工作をの専門としていた。 義方会の本部は京都にあったのだが、大山は東京六本木の支部と繋がっていた。
 義方会の15名の生徒は当時の総理大臣、東条英機に対して強行に反発しており、暗殺を計画した事もあった。 しかしこの計画は事前に漏れてしまい15名は切腹、そして大山を含むその他のメンバーは2週間ほど監獄に入れられ、義方会は解散させられてしまった。
 この時期、大山は朝鮮出身の剛柔会の達人、椎柱と出会う。 大山は以降、2年ほど弔慮気能ざ箸鮟鼎諭∪鞍兵として南太平洋に派遣される直前、終戦となった。

 終戦後、大山は再び椎柱がいた高円寺の道場で修業を重ねる。 しかし1年の後、弔和膸海鮓討咾海ε舛┐拭
 「もう君に教える事は何も無い。 君は私より強くなった。 殆どの人間より強いだろう」
 そして、弔老嘩をするな、ヤクザや女に時間を費やすな、そうしなければ君は刑務所で人生を終えるだろう。 もっと正しい方向に力を使え、と諭したのであった。
 「正義の味方」としてその腕を振るった大山は、深刻な問題に立たされる事になった。 米兵や船員から女性を守って叩いていたのだ。 こうして日本警察とMPは大山の確保に動く。 大山の友人は死にたくなかったら街を去れと警告し、大山は弔離▲疋丱ぅ垢暴召ぁ∧寺に行く事にした。

 山梨県身延山にある仏寺で3ヶ月ほど過ごし、夜明けから夜中まで働いた。 しかしこの禁欲的な生活は大山にとって不満だった。 空手の修業が出来ない程忙しかったのだ。

 こうして首都に戻った大山は、衆議院議員の小沢専七郎を紹介される。 これが精神修養を始めるきっかけとなった。 小沢は大山に、山に1人で行って1年は帰るな、質素な生活をして空手と強さを鍛えよと伝えた。
 大山は、日蓮聖人が修業した清澄山で修業する事にした。 小沢は毎月50ドルを生活費として送ってくれた。
 月日を重ね、大山は1日7時間は修業し、8時間は寝た。 残りの時間は3食を喰い、リラックスして坐禅を組んだ。
 ここで大山は独自の試し割りも研究した。 現在、大会のハイライトでもある演武で見せている試し割りだ。 岩を砕き木を破壊した。 こうして大山の手は厚く固く尖り、スレッジハンマーの様な拳が誕生した。

 大山は1年以上も山伏の様な修練を重ねた。 18ヶ月が過ぎる頃、小沢からの送金が絶えた。 噂ではスキャンダルに荷担したしたとして、収監されているという。 その為、大山は清澄山を下りて館山に行った。
 髭は山を下りたその日に剃ったが、髪は伸び放題だった。 そして屠殺場で自信たっぷりに牛を一発叩かせて欲しいと告げた。

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28歳の大山倍達
 
 「彼らは私が狂人だと思った様です」
 大山はそう回想する。 1人の老人が来た。 彼は頑丈そうな牛を用意し、大山に叩く許可を与えた。
 突然降って沸いたビッグイベントに、屠殺小屋のドアや窓の周りには人が押しかけた。 大山は力を集中させて眉間を叩いた。 牛は唸りを上げ、首を左右に振り始めた。 辺りは騒然となった。 見物人は恐慌をきたし、椅子や机は破壊され、窓も壊れた。 大山が逃げた後も誰も怒り狂った牛を止められなかったのだ。

 大人しくなった牛が確保された後、大山は詫びに半壊した屠殺小屋に戻った。 気にするな、と皆が言った。 大山が本気で牛を怒らせる程の一撃を与えられるとは、誰1人思っていなかったのだから。
 ここで彼はこの場を去る事も出来たであろう。 しかしこの頑固な朝鮮人はそうではなかった。 彼は毎日の様にやって来た。 そして牛をハンマーで叩く様を見つめた。 ハンマーは牛を殺せるのに、どうして大山に出来ないんだ?

 数日後、大山は別のチャンスを与えて貰った。 前回と同じ場所には、多くの群衆が集まった。 最初の一撃で牛の頭蓋骨にヒビを入れていた。 牛の膝はよろめき、大山は牛を立ち上がらせ眉間に2撃目を叩き込んだ。 農夫が角を叩いてみたらどうかとアドバイスした。 大山は牛の後ろに回り、叩いた。 角は飛んで泥に落ちた。
 大山は40回角折りに挑戦し、内36回成功した。 伝えられるところでは、大山は50回牛を殺したと云う。 しかし正確には3回である。 それは全て捻って首の骨をへし折って殺したのだった。

 松竹映画は大山の牛との決闘を中心とした20分の映画を作った。 いつもの様に興味本位の観客が集まり、派遣された50名の警官は、大山が牛を殺すのを防ぐ為の処置だった。 しかし大山は拳で叩かず、手刀の後に角を引きちぎった。 これは動物虐待防止協会(SPCA)への為である。

 牛と闘って後、大山は有名になった。 こうしてこの朝鮮人の空手家は館山に小さな道場を開いた。 しかし間もなく、大山は東京に戻る事になった。 朝鮮戦争が始まり、東京における韓国の作戦の為には護衛が必要だったのだ。 この護衛の仕事は月に150ドルとなった。 勿論空手の稽古を毎日続けた。
 大山の生活は一変した。 始めて良い職と給料にありつけたのだ。 彼には置八子という妻と小さな娘がいた。 2人は東京郊外の妻の実家に住んでいた。 家族は大山が空手家として大成するのを待ち望んでいたのだ。 そして1947年、大山は京都で行われた空手の大会で優勝した。

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1956年の大山倍達

 護衛の仕事を終えた頃、大山は初めてアメリカに渡米した。 1952年3月、柔道家の遠藤幸吉とカリフォルニアのプロレスラー、グレート東郷と共にシカゴのプロレスリング協会に招かれた。 シカゴで演武を見せたのを皮切りに3人は11月までアメリカを巡業し、プロレスラーやボクサーに挑戦した。 大山は全ての試合にKOで勝利した。

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1952年、左から遠藤幸吉、ジャック・デンプシー、大山倍達

 次の夏、大山は再びシカゴを訪れた。 そしてここで有名な素手で牛と闘うのを披露した。 TVカメラが離れると大山は最初の一撃で牛を昏倒させ、角を切り落とした。 その後はニューヨークで1週間ほど空手を指導し、日本へ帰った。

 1954年、大山は3ヶ月ほど東南アジアに空手旅行に赴く。 日本の空手家がタイのキックボクサーに負けたという屈辱を払拭する為だ。 同時に、大山は空手指導や演武を見せて回る事を企画していた。
 蒸し暑い夜だったが、会場には多くのキックボクシングファンが詰めかけていた。 彼らの英雄が、再び日本の空手家を倒すのを見る為だ。 大山の相手は「ブラック・コプラ」、ウエルター級のトップ選手で、アメリカでは苦い試合経験のある選手だ。 加えて、長いキックボクシングキャリアがあった。 大山がリングに上がると、観客は彼を嘲笑した。
 第1ラウンドを告げるゴングが鳴った。 大山はコーナーから出た。 慎重に「ブラック・コプラ」の周囲を回ると、突然恐怖の蹴りが飛び、大山を伸ばした。 レフリーはカウントを数え始め、観客は騒いだ。 しかし驚く事に大山は立ち上がった。 殆どの対戦相手を倒したという致命的な蹴りに耐えたのだ。
 大山は相手の蹴りの動きに集中した。 そして再び顎目掛けて蹴りが放たれる瞬間、大山は足を捕らえ足を引き、バランスを崩させ、廻し蹴りを繰り出しマットに叩き付けた。
 最後に「ブラック・コプラ」が蹴り足を持ち上げると同時に大山の突きが顎に入り、倒れた。 試合後、失神したタイ人を控え室に運ぶと、彼の顎の骨が酷く折れていたのを発見した。 1ラウンド2分、これが大山とキックボクサーの試合結果である。 大山は日本の空手家の名誉を回復させたのだった。

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 1954年は大山にとって素晴らしい1年だった。 ハワイでは1ヶ月ほど、中国系アメリカ人で彼の指導員ボビー・ローを助けて空手指導を行った。 これが彼の最初の海外道場だった。 日本に戻ると目白の公園で生徒に指導を始めた。
 1957年、大山は北海道で半年を過ごした。 滞在中には熊に挑戦した。 しかし公開試合は流れた。 熊の背が高すぎて、大山の拳が届かなかったのだ。
 その頃、マス大山は東京の国際スタジアムで牛と闘う事になっていたが、動物愛護団体と嫉妬した空手家たちが警察に働きかけて興行を止めようとしていた。 非道い状況だった。 雨の降る夜に行われたこの興行では、プロモーターも姿を見せなかった。 しかしやらない訳にはいかない。 大山は不本意ながらも興行を行い、そして角を折る事は出来なかった。

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”Pacific Stars and Stripes”(13/11/1956)

 大山が初めての空手本、”What is Karate?”を出したのもこの年だった。 そして剛柔会の会長、山口剛玄は大山を副会長へと招いた。 この申し出は辞去したものの、顧問となった。 3年後、剛柔流は爆発的に大きくなった。 しかし大山は派閥を嫌い組織から身を引いたのだった。

 大山がアメリカに戻ったのは1959年の事だ。 この時にはシカゴやロサンジェルス、サンフランシスコの支部で指導し、演武を見せた。 そしてFBIの本部とニューヨークでも空手を見せた。 元FBI捜査官で元サンフランシスコ市警のドナルド・バックがサンフランシスコの道場を立ち上げた。

 1960年、増補版の”What is Karate?”を出版した。 大山はこう語っている。
 「私は最初に本を書いた時、3000部程度しか売れないだろうと思っていた。 しかし今のところ170000部以上も売れています」
 これが現在一番売れている武道書だ。
 この年は大山がニューヨークに出向いて、マジソン・スクエア・ガーデンで北米空手大会を行った。 これだけの規模の大会がアメリカで開かれたのはこれが初めてであろう。
 大山は4ヶ月間ニューヨークで過ごした。 ここで大山道場を立ち上げ、指導の為だ。 大山は2年ほど同じ様な行動を取り、海外に支部を増やした。

 1961年、大山は道場の名前を変え、極真会とした。
 そして2年と150000ドルを費やして平塚病院の後ろ、池袋警察署から1ブロック離れた場所に100マットサイズの道場を建設した。 日曜日には150人の空手家が稽古をしている。
 大山は東京に20000人、世界で50000人以上の極真門下生がいると語る。 彼の世界支部は43カ国に180の支部を持っている。 それぞれの海外門下生は毎月3ドルを15ヶ月に渡って納め、それらの収益の他に国内道場からの収入、そして12冊の書籍、内6冊の日本語版を含むの印税が入って来る。
 昨年、大山は最初のオープントーナメント全日本空手道選手権大会を開催。 そこにはそれぞれの道場やキックボクサー、柔道家、他の格闘技者、西洋武術家を招待した。 想像通り、野性的な大会だった。 そして彼は出来れば年内に千駄ヶ谷の東京体育館で3日間のオープントーナメント全世界空手道選手権大会を開く計画を持っている。
 
 大山は自分の強さが衰えつつある事を、不本意ながら認めている。 「しかし私の技術は、」衰えていないと付け加える。 昨年の大会では瓶切りを見せ、今年の7月には重ねた煉瓦を割るシーンをカラー写真に修めた。

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1970年7月、自宅で妻と

 成長する極真会を助ける為、30名からなる本部委員会を設置した。  大山流の空手は闘う精神に焦点を当てており、首から下は直接打撃制だ。  彼は他にも別のスタンスから指導している。 足は真っ直ぐでも身体は別の方向を向いている。 彼独自の技術を追求する為だ。
 47歳の空手の達人が引退する前に、彼には完成させねばならない計画がある。 彼は国際空手道連盟の総本部、講道館の様な巨大な道場を建設したいと思っている。
 「私の夢を実現するには、少なくとも5年は掛かるでしょう」
 大山は言う。
 「しかしこれが完成すれば、現役引退です」

 
 という事で…如何でしたでしょうか? ちなみに結構意訳してたり省略してます。 翻訳は嫌いなんですよw
 色々と首を傾げる様な部分もありますし、年度が間違ってたりとか、時系列上、明らかにおかしい部分もありますが、アメリカにおける大山倍達の伝説っていうのはこんな感じなのです。 これが韓国の大山倍達伝説ですと、日本中の道場を荒らし回って制圧したとか、忍者と闘った、なんていう事になっている様ですが…w

 いくつか解説。
・シカゴの牛との対決に「有名な」とありますが、これは「牛と闘う」のが有名なのか、「シカゴで牛と闘った」のが有名なのか、ちょっと分かりませんでした。 多分前者だと思います。
・タイの「ブラック・コプラ」は原文では”Black Copra”となっています。 アメリカでの試合経験については特に書いておらず、原文には”who had bad ring experience in the U.S.”とありました。

 それでは、また。

参考文献:
Pacific Stars and Stripes, 1956
The New York Times, 1962
Andrew Adams, "MAS OYAMA SEARCH FOR THE ULTIMATE CHALLENGE", BLACK BELT THE 1970 YEARBOOK, BLACK BELT INC., 1970


 






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ほんとうにあったお話 猛牛とたたかう空手(1954年)

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 さて約3年使い続けたケータイとお別れして(と言っても検証用に手元に残しておきますが)、auのIS05に機種変しました。 スマートフォンですよスマートフォン。 ぶっちゃけると押下感が無いタッチパネルはあまり好きじゃないのですがこっちの案件も増えている事ですし、あれだけ各キャリアがプッシュした上、各コンテンツプロバイダが押し込んだら今後はこっちが主流になるのも致し方ないですよね。 で、今の内に慣れておこうと。 早速本ブログを見てみたらいつの間にかスマフォ対応ブログになっていました。 これ、レイアウト編集出来ないかなぁ…。
 で、今まで使っていた極真の黒帯ストラップも2年を過ぎた辺りから全ての文字が削れ、ただの黒いストラップと化してしまいましたし、以前使っていた大山倍達総裁のフィギュアストラップは途中で総裁を紛失してしまったので、今回は協議会派の第7回世界大会記念ストラップにしてみましたw このストラップは「極眞會」と文字抜きされたのがくっついていますが、USBメモリに使っていたところ、あっさり根本から折れてしまい、あまり実用的では無かったんですよねぇ。
 一応封を開けていない黒帯ストラップ、総裁フィギュアストラップ(10年位前に購入w)、総裁風キューピーストラップ、松井派極真キティストラップ等々、各々1個ずつは残しているのですが、もう1個ずつ位買っておけば良かったかなーと思う次第。 何か全く違うストラップを探すか、オリジナルを発注しようかとちょっと考えています。 何か手首に通せるタイプのオススメの一品があれば教えて下さいw


 で、今回は秋田書店の月刊誌「漫画王」に掲載された「ほんとうにあったお話 猛牛とたたかう空手」を紹介しようと思います。 著者名は「空手六段 大山倍達」とあります。 つまりは寄稿文ですね。
 まぁ、この記事は前回書いた「猛牛と闘う空手」のおまけみたいなもんです。 少年誌なのでひらがなが多いのですが、そこは気にしないで下さいw 4ページと短いので全文公開します。
 
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 みなさんは本や映画で、スペインの闘牛をごぞんじでしょう。 赤い布をひるがえして牛をおこらせ、牛がかかってくるところを、剣でつきさすのですね。 日本でも、四国のある地方では、闘牛をかっていますが、わたしは空手で牛とたたかおうと思っていました。
 わたしは、十七歳の時はじめて空手の勉強をはじめました。 ある時は先生の道場で、あるときは山の中で、手や足に血がにじむほどくろうして空手の勉強にはげみました。 そうして約十五年間、今では、屋根瓦なら二十枚、六分板なら八枚、レンガなら三枚ぐらいはならべても、どうやら朝飯まえにわれるようになりました。

 一昨年、アメリカへ行き、日本には柔道のほかに空手道というすばらしい術もあることを、紹介してきました。 アメリカ人は柔道はしっていますが空手のことはさっぱりわかりません。 それでわたしがプロ・レスリングで一番、二番という大男や力じまんのアメリカ人を、わずか二分三分でたおしてしまったのですから、空手のすばらしさにアメリカ人はすっかりおどろいてしまいました。 アメリカ巡業がおわって帰ってきたら、ある映画会社から、「大山さん空手で一つ牛と試合してくれませんか。」という話がありました。 わたしには、ねがったりかなったりです。

 さて、ことしの一月十四日いよいよ猛牛と空手でたたかう日になりました。 牛を空手でなぐりたおす。 これは、動物愛護の上からもできません。 むかし足柄山の金太郎が、クマとおすもうをとってころころと、なげとばしたお話を、きいたことありますが、じっさいに、クマや牛をあいてにとって、なげとばした人のことは、きいたことがありません。 よし、日本でも、いや、世界でもはじめての、牛のつのを空手でおってみよう。 わたしは、こうかんがえたのです。 しかし、よくかんがえると、これは、レンガや瓦の相手と、ちょっとちがいます。 相手は、いきものですし、人間の言葉がわかりません。「まいった。」といっても、「ちょっとまって!」といっても、むだだからです。 ですから、やれば、ほんとうに、いのちがけです。牛のつのがおれるか、わたしが牛のつのにさされて、へたな闘牛師のようにころされるかこの二つしかないわけです。

猛牛とたたかう空手2.jpg

 いよいよ、十四日の日がきました。 場所は千葉県の館山の海岸です。 空には雲一つなく、朝から大ぜいの人がつめかけました。 小学生や中学生が、「大山ガンバレ! ガンバレ!」とおうえんしてくれます。 これでわたしは、いっそう、ふるいたちました。 しかし、相手になる牛が、草原へひきだされるのを見て、ちょっとおどろきました。おもっていた牛より、はるかに大きいのです。 めかたが百二十貫、つのの根本の直径が約十センチあまりつのの長さが、約四十センチもある大牛なのです。 さすがのわたしの自信も、すこし、あぶなくなってきました。 そうかといって今更試合をやめるわけにはいきません。 まければ、つきころされる。 なんとかして、この大牛のつのをおるいがいに、わたしのいきる道はないのです。 牛は、ゆうゆうと、枯草を たべています。

 いよいよ試合開始のあいず! わたしは、ここで死んでも、おもいのこすことはない。 ただ、全力をつくすだけです。 猛牛は、わたしめがけておどりかかってきます。 わたしも、まっ正面から、この暴れ牛に、とりくみました。 百二十貫の大牛の力に、わたしは両手でつのをにぎって足をかけましたが、びくりともしません、力いっぱい、ねじふせようとしても、思うようにうごきません。 そのうち、だんだんおこってきた牛は、その力にまかせて、かえって、わたしをふりまわす。 手刀一ぱつ!
 だが牛は平気だ。むちゅうで、二本のつのをつかんでなげとばそうとしたが、片方のつのが、わたしの腹につきささる。 くそっ! こうして、二度、三度、と決死のたたかいをくりかえすうちに、すきをみてとびこんだわたしは、四つ足であばれる大牛をとりおさえ、角に手刀一ぱつ!
 ウォーッと、ものすごい、牛のひめい。
 ああ、おれたのです!!
 三寸のつのがねもとから、ポキリと、にぶい音をのこしておれたのです。 わたしは、むちゅうでそのつのを、高々とあげたのです。
(おわり)


 という訳で如何でしたでしょうか? まぁ、前回みっちり解説したのであまり書く事は無いんですけどw ただ、ちょっと闘いの様子を脚色してますね。 いや、潤色と呼ぶべきでしょうか。 「大山倍達正伝」を読まれた方にはご承知かと思いますが、この記事は17歳で空手を始めたとあります。 もう少し時間が経つと学び始めた年齢が下がるのですが、これは朝鮮半島で格闘技を始めた年齢を指すんでしょうね。

 そう言えば最近発売された「武道のリアル」という映画監督(アニメの方が有名ですが)の押井守さんと小説家の今野敏さんの対談を読みましたが、まーたいい加減な事が書いてあったりする訳ですよw
 今野さんが言うには大山倍達はあんまり空手をやっていない、多分黒帯までいってない、韓国でボクシングやってアメリカにはプロレスラーとして行って、帰って来てから空手って言ってるんだそうです(棒)。 はぁ、なるほど、だとするならば渡米前に「空手四段」と書かれていた記事とか、剛柔会の有段者名簿とかって何なんでしょうねw 是非とも解説して欲しいものです。 でもって、あきらかに空手じゃない、言ってみれば韓国拳法なんだそうです。 韓国拳法って何スか?
 段位を発行した松濤館や剛柔流もバカにしてらっしゃるんでしょうか。 大山総裁は全空連が編纂した系譜にも名を連ねているし(船越義豪、椎柱両名の下に名前がある)、年譜には生年に名前がありますし、極真は「武芸流派大事典」でも空手に分類されていますし、段位認定会派でもあるんですけどねぇw (※1977年時点)

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段位認定会派一覧より(1977年)

 まぁ、こういう人の「空手の定義」って主観でしか無いので学術的な意味はゼロなんですけどね。 本人にとって好ましいか好ましくないか、もしくはウチの空手とは違いますよってだけの話です。
 個人的には技術的な分類は「首里系」とか「那覇系」なんて複数分かれている時点で「空手の定義」としてはあまり意味が無いと思っています。 Aには当てはまるけど、Bには当てはまらない、そんな「空手の定義」なんて意味が無いでしょう。 本土の四大流派全てに共通する技術を想像すれば簡単なんですが、全てを内包すると他の格闘技も「空手の定義」に当てはまる事になってしまいます。「○○空手の定義」なら問題ありませんが。
 思うに、中国拳法=中国発祥の武術の総称と同じで、空手=沖縄を源流とする徒手格闘を中心とした武術、じゃないですかね。
 以下、個人的な「空手の定義」。
1) 空手の師の名前が明確で沖縄まで系譜を辿れる。
2) 免状を受けている。
3) 空手を名乗り、ある程度の技術を継承している。
 この3つを満たしていれば十分だと思います。 技術的な分類はその先の話でしょう。 そりゃあ極真でも試合に特化してしまい、武術としての空手の意識が薄くなっている人や団体があるのは否定しませんが、空手には違いありません。 というのが、私個人のスタンスですw
 それでは、また。


参考文献:
漫画王 1954年6月号 秋田書店 1954年
空手道名鑑 空手道名鑑編集委員会監修 創造 1977年
武道のリアル 押井守、今野敏共著 エンターブレイン 2011年

 






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藤子不二雄 わが空手修業(1971年)&つのだじろう 大山師をしのんで…(2004年)

JUGEMテーマ:空手
 どうも、軽く昼寝したつもりだったのにそんな時間に起きるつもりじゃなかった、なんて事はありませんか? 私はたった今経験しましたw
 まぁそれはいいのですが、Gyao!で絶賛無料配信中の「空手バカ一代」、続きが来ました。
現在配信中の4〜6話が3/2まで、7〜9話が3/9までとなっております。
 3/3からは以下の3話。
第10話 耐えて耐えて耐えぬいて
第11話 非常階段の決闘
第12話 白刃の恐怖をくぐる

 さて、今回は以前紹介した藤子不二雄A先生の記事の8年前、A先生が空手を学び始め、辞めた頃に描いた「わが空手修業」と。そのA先生を引きずり込んだつのだじろう先生の回想記「空手バカ一代 (故)大山師をしのんで…」と併せて紹介します。

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7月号は虫に食われて穴だらけw

 まずは藤子不二雄A先生の「わが空手修業」。 こちらは「月刊COM」という今は無き虫プロ商事の漫画雑誌で連載されていた「MANGANICA」で2回に渡って描かれたものですね。 見る限り青年誌のカテゴリに入るのかな? 今から振り返ればかなりの大御所が参加しているのに、非常にまとまりの欠けた残念な雑誌となっている様な気がします。 やっぱり作家が描きたい物を描かせるんじゃなく、ある程度売れる物を描かせないと訴求しないな、と思った次第。

 では本編を紹介します。
 
 わが空手修業1

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●過日、ヒョンなことから つのだじろう氏と二人で 空手を習うことになった!
●先生は〈牛殺しの大山〉として 世界中に轟いている大山倍達 極真会館館長!
●特別な御好意でボクラに ジカにケイコをつけてくださると いうので大感激した!
●元来、劣弱の上に、職業的必要性 から酷使しつくしたわが肉体をキビシイ 鍛錬によって改造しようとはかった!
●大山先生はその名のとうり さながら巨大な山のごとく そびえたつ巨人!
●ケイコをつける相手が カトンボのごときボクラであっても バカにされず、静かに三戦の構え!
●その巨体から発する圧倒的 迫力に、小生おもわず、身フルエ、〈これはエライことになった〉とオノノイタ!

 ここまでが1回です。 大山倍達総裁の台詞、「拳龍虎骨 拳禅一路」とありますが、これは多分「龍拳虎足 拳禅一如」でしょうね。
 そして、藤子不二雄A先生の「わが空手修業」断念編w 続けて行きましょう。

わが空手修業2

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ボクは、なまった身体をきたえようと、大決心して、大山倍達先生の主宰する極真会館空手道場へ、週三回通った。
空手着に着かえ、ひやっとする道場の板をふむと、身がひきしまり、先生のおしえられるとうり、三戦の構えをして〈つええーっ!〉と突きや、蹴りの型をとると、自分が急につよくなったような気がした。
それから、三か月間、ボクは雨の日も空手修業にはげんだ。
その結果、心身爽快、気力抜群ボクはキワメテ、キワメテ健康的になったのだ!

ところが、悲劇がおとづれた。 あんまり健康的になりすぎたせいか、机にむかっても、まんがのアイデアがまるでなくなったのだ!

いくら頭をひねっても、アイデアがうかばず、ボクは〈つええーっ!〉ととび蹴りしたがヤッパリだめだった……ボクはまんが家をつづけるため泣く泣く空手修業をやめた……

 …まぁ、辞める理由が欲しかったんじゃないかと、私は思いますw 後述しますが、つのだじろう先生がこの事についても触れていますので、そちらを読んで見て下さい。

 次にその藤子不二雄A先生を空手の道に誘った、つのだじろう先生の回想記「空手バカ一代 (故)大山師をしのんで…」を紹介します。 以前はこれ、ネットで公開されていたんですけどね、いつの間にか無くなっていたみたいです。 公開されていた版も手元にあるのですが、10年ほど前の最初期のものでしたので、2004年「格闘Kマガジン」に掲載された版を掲載しようかと思います。 確か、この雑誌に載った頃はもっと書き足した物が公開されていたと記憶しているのですが…そちらは保存していませんでした。
また、つのだ先生が描いた幻の漫画「ゴッドハンド」は以前記事にしましたので、そちらも併せて読んで見て下さい。

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 (故)大山倍達師。 会っただけで押し潰されそうな圧倒的気迫を持つ、世界一の空手家。 巨体から低音で”押忍”と云う声を聞くだけで全身にビリビリと電流が伝わる感覚がする大迫力だった!
(中略)
 初めて館長にお目にかかった時、手を見せて戴いた。 その記憶は鮮烈に脳裏に浮かぶ。 空手を知らない人は、絶対に〈拳ダコ〉だらけと想像するだろうが……さにあらず。 非常に分厚いが、まるで餅のように柔らかかった。
 私が、驚いて意外な顔をしていると…『拳タコなんて出来ている内はまだまだだね! 修行を重ねたら、タコなんかなくなるよ!』と…平然とおっしゃる。

 まさに至言だ! 我々もペンダコが出来たの新人の頃。 描き込むうちにタコの上にタコが重なってポロリと剥げ落ちるのを繰り返し… しまいには柔らかくなるのだ…それでお話は納得できた。 それが真実だと云う事は門外漢には想像もつかない筈だ。
 自分が修練し、空手を知らなくては、本格の空手漫画など描ける筈がない。 正拳突きひとつ。 まわし蹴りひとつ描いても、知らなければ、ウソッパチの絵になる。 …したがって。 漫画『空手バカ一代』は、自慢めくが、私の描いた分に関しては…動きの正確さについては、大山師ご本人のお墨付きなのである。

つのだじろう2.jpg
つのだ先生の上段廻し蹴り

 しかし…キツかったですよ! 個人特訓は…
 当時は仕事・仕事で多忙を極め、連日の徹夜・徹夜は当たり前だった。 …その間を縫って週3回極真へかよう。 館長じきじき、たかが私のために、時間を取って下さっているのだから、どんな辛くても休む訳にはいかない。
(中略)
…やがて「先生ひとりでは大変だろうから、だれか友達をさそって一緒にやらないか?」と、おっしゃるので、藤子不二雄A君をさそったら、彼も興味津々で乗って来て、一緒に極真へ通いはじめた。 彼自身も多忙を極めているから、お互いにもう必死で…稽古が終わる頃にはもうフラフラ。 帰り道の一杯のビールの、それはそれは…旨かった事!
 あれほど旨いビールはその後、お目にかかった事がない。 これも、いまでは笑い話だが藤子A君は2ヶ月程で、海外旅行をするのを理由に、このハードな稽古から撤退した。

 私は館長特訓を半年。 その後、長谷川師範の個人特訓から…壮年部とまる2年。 極真へ稽古に通った。
 ある時。 大山総裁が「君たちに初段の免状をあげよう!」と云ってくださった事がある。 …私は、まだ稽古を続けていたので『いま、戴けるのは名誉初段ですから、僕はちゃんと〈段位認定〉をうけて正式な初段を取りますから』と、えぇカッコつけちゃった…! その時は、マジ真剣にそう思っていたんだがこの辺が、私のバカ正直なところで…(笑)
(中略)
完全に多忙過ぎ、続かなかったのだ。 したがって極真会館の段位名簿には、藤子不二雄A君は「初段」として立派に登録されているが、私の名前はない…と聞いている。
 今にして思えば『名誉段でもいいから、戴いておけば良かった!』と後悔している(笑)

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有段者名簿に載った藤子不二雄先生

(中略)
 『いくら空手が強くても、武道だけでは半人前でしかない。【文武両道】だからね。 だから私は、自分にない才能を持つ人は、みな師だと考え、尊敬する様心懸けている。 私には〈武〉はあるが〈文〉はない。 先生には文がある。 だから対等でお付き合いしましょう』大山総裁はそう云って、私とも対等に、礼儀正しくお付き合い下さった。 これも…大切な『極真魂』なのだと私は理解している。
 
 という事で今回はここまで。
 2人の偉大な漫画家による極真にまつわるエピソードを紹介してみましたが、如何でしたでしょうか?
 
 現在資料待ちだったり、準備が出来なかったりでまだ掲載していない記事がいくつかあり、これらは上半期中にやりたいなぁと思います。
・大山道場
・公開された2度の牛との対決
・極真空手と少林寺拳法
・カラテ群像
 これ以外もダラダラとやりますが、上記4点は中々パッと始められないんですよねw 他にもリクエストがあれば検討致します。 「アメリカ遠征」もまだ公開していない記事や集めた資料なんかも出したいですね。 まぁ、気長にお付き合い下さい。

 それでは、また。

参考文献:
月刊COM 71年7月号 虫プロ商事 1971年
月刊COM 71年8月号 虫プロ商事 1971年
第14回オープントーナメント 全日本空手道選手権大会プログラム 極真会館 1982年
格闘Kマガジン 2004年9月号
ぴいぷる社 2004年

 






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大山倍達 世界へのメッセージ(1989年)

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  昨日はDVDで持っているにもかかわらず、Gyao!で「空手バカ一代」の6話まで通して見てしまいましたw
 やっぱり飛鳥先生の声はイイ! 途中で銭形警部やらジャイアンの声が入っていてちょっと笑ってしまいますけどw
 という事で1〜3話は2/23まで、4〜6話は3/2まで配信中です。
 以降の予定は…
第7話 むなしい勝利
第8話 道場破りの果て
第9話 猛牛への挑戦
の3話が2/24から配信されます。

 それでは今回はですね、リクエストがあったので、大山倍達総裁が福晶堂の「月刊空手道」に初登場した際の記事を載せてみます。

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 以前にも中村誠先生と三瓶啓二先生のライバル対談等を実現して来た雑誌ですが、大山総裁のインタビューは初なんですよね。
 この路線で山口剛史先生や金澤弘和先生、岡野友三郎先生とか(他にも多数思い浮かびますが)の対談記事とかあったらなぁと思います。 …多分縁ある方とじゃないと無理でしょうしw

 本題に戻しましょうか。 記事は「極真空手総帥 大山倍達 世界へのメッセージ」と題して、結構ハードなメッセージを送っています。
 まずは冒頭のメッセージから行きます。 総裁は世相を懸念しつつこの様な発言をしています。

メッセージ
(前略)
 格闘技の中で最強に強い格闘技があるとするならば、他でもない空手である。 そして空手の中での最強は極真空手と自負するところである。 私は声を大にして、極真空手こそが人類の平和と、世界の融和をもたらすものであると言いたい。 この章にあたって、勿論それを叫ぶのであるが、それと同時に大山倍達は人間である。 神様ではない。 欠点も多い男である。 人は毎日反省をするところに進歩があり、自分も毎日反省している。 極真空手もまた完璧とは言わない。 欠点あることもよく知っている。 ルールについても、これからまだ補正し、改正していかなければならない。 出来うるならば、皆さんに極真に参加してもらい、徐々に直していってもらいたいと願いつつ、これを日本へのメッセージは無論のこと、世界へのメッセージとして贈るものとする。
極真会館 大山倍達

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 そしてこれはちょっと珍しいですね、座右銘の12ヶ条バージョンです。 実は晩年になって11から1つ追加され12になったのですが、あまり目にする機会がありません(私がぱっと思い付くのは「わが師 大山倍達」ですかね)。 という事でいつかネタにしたいと思っていましたし、丁度良いので掲載します。 皆さんは何が増えたのか分かりますか?w

座右銘
一   、武の道は礼にはじまり礼におわる。
        よって常に礼を正しくすべし。
二   、武の道の探究は断崖をよじ登るがごとし。
        休むことなく精進すべし。
三   、武の道においてはすべてに先手あり。
        しかれども私闘なし。
四   、武の道においても金銭は貴いものなり。
        しかれども執着すべからず。
五   、武の道において金を失うことは小、信を失うことは大、
        覇気を失うことは己を失うことなり。
六   、武の道は姿なり。
        何事においても常に姿を正しくすべし。
七   、武の道においては千日を初心とし、
        万日の稽古をもって極とす。
八   、武の道における自己反省は
        常に練達への機会なり。
九   、武の道は宇のためにあるものなり。
        修練にて私心を忘れるべし。
十   、武の道においては点を起とし、円を終とす。
        線はこれに付随するものなり。
十一、武の道において真の極意は体験にあり。
         よって体験を恐るべからず。
十二、武の道において信頼と感謝は
         常に豊かなる収穫を得ることを忘るべからず。

 それでは、メッセージを引用して行こうかと思います。

空手について
 …武術の原点は素手で殴り、蹴り合うというものではないか。「人は空にして生まれ、空に帰る」という言葉があります。 何も持たずに、まさに”空手”で生まれた人間が、素手で闘う、それもまずはつかみ合い、組み合いせずして殴る、叩くー、これこそが闘争の原点である。 このような意味から考えるならば、空手こそが、すべての武道の原点だといってもいいのではないでしょうか。

寸止めについて
 実戦と証明、これが私の信念であるからこそ、私は今まで終始一貫として”寸止め”による勝負を批判してきたのです。
 空手は武道です。 武道であるならば、何よりもその存在意義たる実戦性、強さを追い求めなくてはいけない。 もちろん武道はそれだけでない。 礼節を極め、精神を鍛える、人間教育の道である事も私はよくわかっているつもりです。 しかし、だからといって強さを第一義にせずして何が武道であろうか。 本物の武道を求めるならば、より実戦に近い形で研鑽し合う事こそ重要ではないか。「危険だから当てない」「倒れるハズだから当てない」、それなら問うが、何が危険なのか、どう攻めれば危険であり、どう受ければ危険ではないのか。 そして倒れるハズだという証明はどこにあるのか。 これらすべての疑問が”寸止め”では解決されない!
 相手に当てずして勝敗を決する、これは実戦を”仮想”するのではなく、”幻想”を見ているのです。 空手が武道であり格闘技であるならば、まず最低限、当て合うべきです。 だからこそ私は”寸止め空手”を体操に過ぎないというのです。 本当に空手を考え、自ら実践者であろうとするならば、そして自分自身が空手家であり武道家であるという誇りがあるのならば、闘う事を否定してはいけない。

極真ルールについて
 現在、極真会館主催の大会で行われているルール、国際空手道連盟ルール(国空連ルール、極真ルール)をつくったのはもちろん私です。 しかし、大山道場当時、組手にルールなどはありませんでした。 正直いって禁じ手なしの組手でした。 寸止めを否定し、直接打撃を主張する私としては当然の事です。 でもだからといって空手は殺し合いではありません。 毎日の稽古で死人が出ていては20世紀の現代に存在する事はできません。 そこでいつしか、顔面に対しては、掌底で入れたり、牽制程度にしたりしていったのです。 ですから、実戦性を重んじ、武道として存在し得る空手でありながら、殺し合いではないという、ギリギリの一線が顔面強打の禁止なのです。

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 大会にはルールがあり、そこで勝ち上がるためにはルールに則り、ルールを利用しなくてはいけない。 そこで最近の傾向として、顔面をガラ空きにした組手が多いという声があるのも知っています。 しかし、選手達自身も、もちろんそれは承知のはずです。 道場での稽古では、禁じ手なしを想定した場合の研究、指導などは十分になされているはずです。 いつ顔面を殴り合ってもいい準備と精神力はどの選手、道場生にもあるでしょう。 だからこそ、極真カラテが武道空手だといえるのです。

防具について
 防具については、私はもう40年以上も前から研究しました。 剣道の防具を改良したり、色々な素材を利用したり、あらゆる方向から防具を考えたものです。 しかし、やはり防具着用については空手の本質を変えるいくつかの矛盾性を解消する事ができなかったのです。
 防具においては、打撃による痛みを感じないために、肉体鍛錬が軽んじられ、パワーが無視される。 防御が甘くなり、組手に真剣さ、緊張感がなくなる。 防具について試行錯誤した結果、残念ながらこのような結論に達せざるを得なかったのです。
 また、顔面への手による攻撃について、寸止めは論外として、面(防具)をつけたうえでのルールももちろん模索しました。 しかしこれも結論的に限界を感じざるを得なかった。
 素手・素足での攻防、これが空手だというのが私の信念ですが、素手で攻撃した場合、防具の上からでは必ず拳、手首を痛める。 どんなに拳を鍛えていようと、防具を殴る以上これは避けられない。 寸止めの延長で軽く当てるのならまだいい。 しかし、渾身の力で殴るなら、拳は使い物にならなくなる。

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 そして、次に脳への影響です。 脳への悪影響を考えるならば、まだ、防具ではなく素顔を殴ったほうがいい。 防具を着けた場合、突きの衝撃は後頭部に残るのです。 ボクシングでいうところのパンチドランカー、これに近い症状になってしまう。 空手は武道であるが、殺し合いではない、それと同時に空手の稽古がすなわち人間破壊になっては本末転倒である。
 このような意味で、私は極真ルールこそが最も空手として理想に近い姿だと自負しています。
(中略)
 それこそ私は空手の本義に返れ、と言いたい。 本来の空手の技量を伸ばすために、他武道を研究するのは素晴らしい事です。 事実私も柔道なども学びました。 しかし、これと、ルールの中に入れる事は全く別問題です。 実戦においては一撃で人が倒れない事もあります。 突いて倒れない、蹴って倒れないからといって投げればいい、締めればいいというのは、本来の空手から逃げる事ではないでしょうか。 一発で倒れないなら、一発で倒れるように修業する。 どうしても一発で倒れないなら相手が反撃する前に2発入れられるようにする。これこそが空手の本義ではないでしょうか。
 
型について
 空手では、”地に則った基本、理に適った型”といわれる通り、極真会館でも稽古の中で、型は重要な部分を占めております。
 型の動作の中には、組手における立ち方に始まり、歩き方、攻撃技、受け技が含まれており、いわば型は空手の教科書ともいえるものです。 空手を指導する際、できうるならば自らが動き、手本を見せ、五体をもって教える事が最も望ましいのはいうまでもありません。 しかし、人は年をとるものです。 老いて身体が自由に動かなくなったとき、つまり自らの動きで十分に指導ができなくなったとき、何をもって教えるか、そんなときこそ型が重要になるのです。また1人稽古する際も、型によって理にかなった動きを学ぶ事もできます。

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 型はまた、先人の空手に対する精神を継承する意味でも、文化財としての価値があります。 しかし、だからといって型は空手のすべてではありません。 あくまでも、稽古の中の一部としてのみ生きるものです。 ところが、型が組手と同格のものとして他団体において扱われている事は、どうしても私には理解できません。 型を競技化し、それを体操と同様に点数によって優劣を決める、完全に型をスポーツの一種目ととらえ、競技として見ているわけである。 その一方で、型は武道であると断言し、型は空手の精神であり、まるですべてであるが如くに神秘化する。 つまり、完全に矛盾したものを型に求めているのです。 これを果たして彼らはわかっているのでしょうか。
 型が空手の武道性、精神性を表すものだというのなら、何故に試合を行い、それも点数制にするのでしょうか。
 今述べたように、極真会館においても型は重要な稽古の一部です。 しかし型はそれ以下でもなければそれ以上でもない。 型を競技化する事にわたしは反対しません。 むしろスポーツとして、子供や女性、老人でも親しめるために、型は必要なのかもしれません。 それなら完全に型をスポーツとして割り切り、体操やフィギュアスケートのように、音楽を流して行えばいいと思います。

本家日本について
 私は、基本的には本家日本が必ずしも優勝しなくても良いと思っております。 何故なら、それだけ極真カラテが世界に広まっている事を証明するわけですから。 しかし、だからといって本家である日本がぶざまな負け方をしていいわけではありません。 世界の空手はみな、本家である日本を目標に日々精進しているのです。 日本選手はそれら、海外の人々の期待に応える義務があるのです。
(中略)
 日本勢が外人勢に大きく差をつけられた結果、一体どうなるか。 もはや外人は日本に対する憧れを失い、日本を目標とせず、指導員を日本人ではなく、他の強い国に求めるようになる。 その結果、組織的な実権も日本は失い、海外諸国のリーダーシップにより組織が動く事になる。 まさに柔道界の二の舞になってしまうのです。 それが現在の寸止め空手界ではないでしょうか。
 空手は日本で生まれたものです。 日本独特の武道性、精神性を空手に求めていくためには、本家日本が絶えずリードしていなくてはいけません。

技は力のなかにあり
 相手の技を確実に捌き流す。 そしてまわり込みながら攻める。 左右に動き、間合を計る。 空手の究極の姿は相手に接する事なく倒す事です。 このような空手の本分を決して忘れる事なく精進しなければいけません。
(中略)
 空手で強くなるためには”力””スピード””技”、この3要素をそれぞれ磨く事が必要です。 そしてそれらの中でも特に軽視してはいけないのが力、つまりパワーです。 日本人の悪い傾向の1つに、技を重視し、力を軽視する事があります。 しかし、これは大きな間違いです。
(中略)
「技は力の中にあり」これは真理です。 しかし、だからといってマシーンを使い、バーベルを持ち上げればいいというものではない。 決して機械に頼ってはいけないのです。 特に空手は武道であり格闘技です。 相手に勝つためには、まず自分に勝たなくてはいけない。 精神力、気力が何よりも大切なのです。 そのためにこそ、決して技におぼれず、マシーンに頼らず、まずは自らの五体を以て鍛錬する事を忘れないで欲しい。

 他にもこの号では、
「”巨星”大山倍達 極真までの道程を語る」
「極真空手年譜」
「検証・極真空手」
と、4部構成になっており、極真に対し負の感情を持っていた読者には腹立たしい特集だったかと思いますw
 最後に今更ながら気付いたのですが、大山倍達史の記事で大山総裁がさり気なく真相に近い事を語っているんですよね。 以下抜粋。

 …京都の丸山公会堂で戦後初の武道大会が開かれました。これは柔道や剣道が中心となるもので、空手も一緒に参加してました。 そこで私は、空手の演武の中で、組手の試合もあるというので出かけていったのです。 その頃はまだ、同じ寸止めでも現在のようにルールがしっかりしていない模索の時代でしたから、組手は一応当ててはいけないという約束だったと思います。
 私は飛び入りという形で出場しました。 しかし試合は当てようが当てまいが全く問題にならない。

 分かりますかね? 「空手の演武の中で、組手の試合もある」と大山総裁が自ら語っています。 つまり選手権試合じゃなかったという事ですね。 しかも本文中、どこにも「優勝した」とは書かれていませんでした。 私は演武者の中で最優秀賞で「空手日本一」みたいな感じの表彰をされたんじゃないかと推測している訳ですが、いずれにせよこれを裏付ける資料も人も、今となっては誰もいません。 ただトロフィーが1つ、残っているだけです。 (戦後初の空手大会についてはコチラの記事で書きました。)


 という事で今回はここまでです。
 他にも空手界の大同団結の話なんかもあったんですけど、その辺りは割愛しました。
 大山総裁が思っている本来の極真は、「道場の稽古では試合だけでは無く、ノールールの指導、研究もしている」という事ですが、これを守っていたのは本当にいくつかの支部ぐらいでは無いでしょうかね。 機関誌の「月刊パワー空手」では暫くノールールの中の空手技術を紹介する連載なんかもあり、中には結構エグい技なんかもありましたけど、こういう事も研究しろよって意味だったと思います。
 しかし支部によっては基本稽古の廻し蹴りでさえ、帯を持たない組手立ちからの蹴りしかやっていない所もありますし、中には約束組手すら殆どやった事が無い支部もあるそうです。 あ、約束組手をやっているという道場でも、それは所謂「受け返し」を指しているという話を聞いた事があります。 今はそういう事も無いでしょうが、型を殆どやらない道場なんかもありましたよね。
 逆に、顔面ありを研究して掌底やスーパーセーフ、グローブでの組手を指導している道場や選手育成コースを持っている道場もありますから、極真と言っても道場単位でかなりの開きがあります。
 しかしどの極真が勝っても負けてもそれは全ての極真に返って来るものですから、私が言うのも何ですが、「さすが極真」と思われるような闘い、生き様を見せて欲しいものです。 勿論、組織としてもね。

 ちなみに、今回割愛した「空手界の大同団結」ですが、このインタビューの少し前から提唱していた事で、オリンピックが絡んでいます。

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 大山総裁自身は古くから空手界にいらっしゃるし、それなりの発言権が斯界に対してあるのですが、それでも全空連との話し合いは平行線を辿ってしまい、結果的に総裁にとっては腹立たしい事にテコンドーに遅れを取ってしまったと。 それで、まずは国内を直接打撃制で固めたかったんだと思います。
 ところで、私の手元にある今号は印刷ズレがあり、表紙がぶれていますw 3Dメガネ掛けたら浮きますかね? これが切手やお札なら高値が付きそうですが、ただの雑誌では評価低いだろうなぁ…。
 本当は今回藤子不二雄先生とつのだじろう先生のネタをやろうと思っていましたので、こちらは次回に回します。
 それでは、また。

参考文献:
月刊空手道 1989年1月号 福晶堂 1988年
ゴング格闘技 1989年10月号 日本スポーツ出版社 1989年

参考リンク:
空手バカ一代 無料動画 GyaO! (2011/02/20)

 






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